チベットの歴史19 イギリスのチベット進出1

 19世紀も末葉になると、ヒマラヤ山脈に沿った諸侯国がイギリスの影響下に置かれるにつれて、チベットに対するイギリスの影響力も伸長してきた。1861年には英領インド政府はシナからの同意が得られることを条件に、ラサへの遠征隊の派遣を承諾した。チベットーインド間で茶や手工業品、羊毛や象牙、薬草などの貿易が開かれることを期待したのである。当時、チベットはインドからの茶の輸入を禁止していた。イギリスは1876年の芝罘(チーフー)条約によって、四川や甘粛のシナ経由か、インド経由でそうした遠征隊をチベットに派遣する了承をシナから得た。
そこで1886年、マッコレー・ミッションと呼ばれるイギリスの遠征隊が組織され、インドのシッキムからチベットに入った。この遠征に反対するチベット人は彼らの出発を妨害したが、チベット政府はむしろ彼らがチベット領だと主張するシッキムの国境地帯に軍隊を派遣した。そこで1888年、これを迎え撃ったイギリス軍はチベット軍を同地域から駆逐した。こうした戦闘を受けて、ラサのアンバンはインドまで赴いてイギリスと対応を協議した。その結果、1890年にシナがシッキムをイギリスの保護領とすることを承認する条約が締結され、シッキム‐チベット間の国境線は書き改められた。そしてさらに三年後の1893年に結ばれた英清間での条約では、シッキム‐チベット国境のチベット側にある町、ヤドンにイギリス向けの市場を開くことをシナが受諾した。またイギリスはヤドンに貿易を監督する通商官を置くことも承知させた。
しかしチベットはこうした条約の交渉に参加していなかたので、その施行に協力しなかった。1899年、カーゾン卿がインド総督として登場したのはそんな状況下であった。彼はシナが最早チベットをコントロールできないことを悟ったので、イギリス本国に打診し、ラサ政府と直接交渉するための許可を求めた。ところで1895年に実権を掌握したダライ・ラマ13世はもともとイギリスとの貿易に興味がなかったので、カーゾンが複数の書簡を送ったとき、彼はイギリスとの直接交渉はシナが喜ばないといってそれらを未開封のまま送り返した。チベット政府との直接交渉が無理だと分かるや、今度は1903年、イギリス本国に遠征隊の派遣を許可させ、チベットを力ずくで交渉に応じさせようとした。それでもチベットは交渉を拒否したため、英領インド軍はチベットの奥深くまで侵攻した。途中、チベット軍が迎え撃ったが簡単に撃退され、千人以上のチベット兵が戦死した。かくして1904年8月3日、イギリス軍はラサに入城した。これはチベットを征服した最初の西欧軍である。
これらの期間ずっと、シナ政府はアンバンを通じてダライ・ラマ13世にイギリスとの交渉に応じるように説得し、まさに遠征軍がラサに入城するときには司令官のヤングハスバンドとの会談を促した。しかしシナはダライ・ラマを統制できなかったので、彼はこの警告を無視し、モンゴルに亡命した。不本意な条約への署名を強要されることを恐れたためである。モンゴルにあってダライ・ラマはイギリスとの対抗関係にあるロシア皇帝の支援を期待した。
イギリス軍をラサから撤退させるため、ラサに残されたチベット官僚たちはイギリスの要望に従い、いやいやながら1904年の英蔵協約として知られる条約を締結した。しかし本協約は、チベット政府とイギリス遠征軍の司令官のみの間で署名されたので、清国政府のアンバンはこれを拒否した。本条約はイギリスにシッキムを保護領とすることを認め、チベットの三つの町(ガンツェ、ガルトック、ヤドン)を貿易市場とする権利を付与するものであった。その内容は曖昧模糊としていたが、シナはおろかロシアを排除し、イギリス以外のいかなる国家がチベットに対して政治的影響力を行使するのを禁止するに十分なものであった。さらにチベットには莫大な賠償金が課され、これが支払われるまでシッキムに隣接するチベット領の一部がイギリス軍に占領されることになった。さらに本条約に関連する問題を話し合うため、英国の通商官吏がラサを訪問することも認められた。これらの結果、イギリスはチベットを事実上の保護国にしようとしたのである。

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