対米従属の構造分析①有馬哲夫『原発・正力・CIA』(08年、新潮新書)を読む1/2

 日テレは今年で開局60年である。その日テレの創業者である正力松太郎(1885~1969)とアメリカとの謎のヴェールに包まれた関係を、近年アメリカ公文書館で公開された当時の機密文書を読み解くことで明らかにした著作が有馬哲夫『原発・正力・CIA』(08年、新潮新書)である。タイトルの通り、正力は戦後のCIAによる対日工作や今日の原発問題と深い因縁を有している。というも本書によれば、彼は戦後我が国の共産化を危惧するアメリカ政府の逆コースに便乗してCIAのエイジェントして活動し、またその一環として我が国の政界に働きかけて原発を導入したフィクサーだからである。

 
正力は明治18年、富山の土建業者の長男として生まれ、東大を卒業後内務省から警視庁に入り、官房主事や警務部長などを歴任した。しかし1923年の虎の門事件(摂政宮暗殺未遂事件)の結果、治安当局の責任者としての立場から警視庁を辞職している。その後、前内務大臣の後藤新平から大金の借金をして当時発行部数が5万部程であった読売新聞を買収し、戦後までには発行部数200万部を数える主要紙に押し上げた。
 
戦後、米ソ冷戦の勃発に伴い、アメリカはマーシャルプランを始めとした積極的な経済援助によって西側諸国を取り込み、共産化の阻止を図るようになった。またその一環として、原子力の分野に於いても時のアイゼンハワー大統領は1953年の国連総会における「アトムズ・フォー・ピース」演説を契機として平和利用を目的とした原子力技術の輸出を解禁するに至った。こうした動向を敏感に察知したのが、GEやジェネラル・ダイナミクス社などが一翼を担うアメリカの軍産複合体である。彼らは原発を我が国に導入させその製造を請け負うことによって、巨大な利権を手に入れようとしていたのである。ところが「アトムズ・フォー・ピース」演説の直後にアメリカがビキニ環礁沖で実施した水爆実験で第五福竜丸が被爆した事件をきっかけとして、わが国では核兵器や原子力に対する反対運動が巻き起こり、それは広汎な反米運動に発展しかねない様相を呈し始めていた。
 
こうした状況のなかで、アメリカの情報部が目を付け接近した人物が正力であった。当時彼は、それまでの日テレによる放送事業に加えて、アメリカからのマイクロ波通信網の導入(「マイクロ波構想」)を目指しており、その資金の借款をアメリカ国防総省から取り付け、さらには時の吉田首相に通信免許の許可を申請している最中であった。そこでアメリカは、このマイクロ波構想の働きかけを通して正力がアメリカの政財界との間に築いたパイプに加えて、彼が読売新聞や日テレで有する世論形成への影響力を利用することによって、我が国の反核・反米世論を鎮静化し、原子力の輸出を推し進めようとしたのである。これを裏付けるかのように、読売新聞では1954年の1月1日から「ついに太陽をとらえた」という原子力の平和利用をテーマとした大型連載を開始している。
 
ちなみに本書では、マイクロ波通信事業の認可を政府から取り付けるため政界進出を決意した正力が、原発を政界でのし上がるための梃子にしようとしていたと書いているが、その証拠は少なくとも本書では示されていない。それに仮にそれが事実だとしても、時の吉田首相に認可を申請しておきながら、吉田の政敵である鳩山一郎を支援していた事実と矛盾をきたす。つまりマイクロ波構想が政界進出の目的だとするならば、なぜ免許権者である吉田の怒りを買うような鳩山支援を敢えてしたのか説明がつかないのである。
 
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