尊皇志士のバイブル
江戸時代前期に山崎闇斎が創始した崎門学は、弟子たちを通して近世日本思想に大きな影響を与え、明治維新の思想的原動力となりました。なかでも闇斎の高弟である浅見絅齊が貞享四年(1687年)に上梓した『靖献遺言』は、「君臣ノ大義」を貫いて国家に身を殉じたシナの忠臣達の行跡と遺言を収め、婉曲に徳川幕府による大政壟断を批判したことから、後に幕末の志士たちの間でバイブルとして愛読されました。なかでも、越前の藩儒、吉田東篁を通じて崎門の学統を継いだ橋本左内などは、常時この『靖献遺言』を懐中に忍ばせていたと言われます。書名にある「靖献」の字は、人々おのおのみずから靖んじて己の志す道を進み、それぞれその身命を捧げて先王に報いるべきであるといった意味です。
そこで本稿では、この『靖献遺言』のなかから、南宋の忠臣として知られる文天祥をご紹介し、彼が遺したとされる「社稷を重しとし、君を軽しとす」という言葉が我が国史上において持つ意味を考察して参りましょう。
南宋の忠臣、文天祥
文天祥は1236年、現在の江西省の出身です。弱冠二十歳のとき科挙に首席で合格しました。その後、徳祐帝のもとで贛州(こうしゅう)の知事を務めていましたが、当時シナ河北を占領していた元軍が長江を越えて南進するに至って勤王の軍を起こし、宋の都がある臨安(現在の南京)に赴きます。しかし元軍の破竹の勢いに戦意を喪失した徳祐帝は降伏を申し入れ、そのための使者として文天祥を元の敵将バヤンのもとに遣わしました。ところが両者の会見で天祥は飽く迄不屈の態度を示したため、バヤンは立腹し天祥を拘束して元の都がある大都(現在の北京)に連行、それから臨安に入城して、徳祐帝と太皇太后(皇帝の母)、皇太后の身柄も大都に連れ去ってしまいました。北に連行したので、これを北送といいます。天祥は北送の途中、運よく脱走に成功したため、拉致された徳祐帝に代わって皇太子の益王昰(端宗)、端宗が崩じた後は衛王ヘイ(日の下に丙、祥興帝)を相次いで新帝に擁立して元との抗戦を続けました。しかし再び敵に捕らえられ北送され、その後ついに宋は滅亡します(1279)。
さて、大都では元の大臣ボロが天祥を引見しました。その際、ボロは天祥が自分に拝跪しないことに怒り、先に天祥が降伏の使者として赴きながら元に屈服せず、北送の途中で脱走した態度の矛盾を責めました。すると天祥は、それは己の利のために国を売らなかった証拠だといって反論し、さらにボロが、徳祐帝が退位していないにもかかわらず、皇太子の二王を擁立したのは不忠だと言って責めると、非常時に於いては君主個人の問題よりも社稷(国家)の存続の方が大事だ、また二王は宋室の正統だから簒奪にはならないと云って反論しました。前述した「社稷を重しとし、君を軽しとす」とは、そのとき天祥が言った言葉です。
臣子たるの道
浅見絅齊は、こうした天祥の臣節を我が国の南朝史と比較して次のように述べています。
「後醍醐天皇比叡山の軍に負けさせ給ひ、尊氏がいつはりて、御恨はござらぬ、とかく味方ヘ御入あるようになされよと云てをこすをまことと思召すあまりに、負けさせ給ひて、先づ一旦の計略に御入ある時、義貞が恨を申上げたれば、まづ当座計略なり、其のしるしには一宮ヘ三種の神器を御ゆずりあつて義貞に之を取立てまゐられよと仰付られ、義貞は一ノ宮をもり奉りて北国ヘ落ちらるヽとき、左馬介や宇都宮・土居・得能・河野の一族どもは北国へつき下る。兎角此の時、天皇につきまゐらする者も二心は懐かねども、此時に当つては北国へつき下る筈なり、天皇の降参なされたと云ことは、勿体なきことじやが、まづ尊氏がよび奉るに、おめ〳〵と御入あれば、これは伊弉諾・伊弉册以来のけがれをなし給へり。すれば御正統は一の宮へ伝はりて、三種の神器もつたはれば、最早天下の主は一の宮ゆえ、此方ヘ附き参らす筈なり。此時は社稷を重しとし君を軽しとする。」
後醍醐天皇が足利高氏に降伏したとしても、新田義貞が一ノ宮こと尊良親王を奉じて北陸に逃れておられるからには、忠臣たる者、親王を天子に戴いて最期まで高氏と戦うべきであるというのであります。
先の大戦で我が国はアメリカに降伏した結果、天皇の人間宣言、現行憲法発布、日米安保条約の締結と、祖宗の御遺訓に悖る政体の変更が立て続けに断行せられました。しかし以上でみたように、『靖献遺言』は、我々に臣子たる道の再考を迫らずにはおけません。