一昔前、筆者が東京で学生をしていたとき、永田町の議員会館で桜井よしこ氏の憲法に関する講演を聴いたことがある。内容は、保守論壇でよく見聞きするするような話がほとんどであり、たとえば前文が日本語として不自然だとか、憲法制定の経緯がハーグ陸戦法規違反だとか、個人の権利ばかりが強調されていて国家共同体に対する義務が欠落しているとか、9条が日米同盟の障碍になっているなどといった類である。そしてお決まりのように、氏は国民投票による憲法改正を主張して講演を締めくくったのであった。
聴衆はいつものように、氏の凜として気品ある語り口と、それでいて左翼を一刀両断する痛快な弁舌に魅了され満足の様子であったが、筆者は氏の問題提起には賛意を抱きつつも、その解決手段にいささかの疑念を禁じえなかったので、用意された質疑応答の時間に率直にその思いをぶつけてみた。
というのは、論壇や政治家が憲法を云々するのは、万機公論に決すという明治陛下の御聖慮に基づくことであるから、国民に下賜された自由であり権利であるとしても、そもそも憲法制定権力は天壌無窮の神勅に由来する天皇の神聖な大権であるのであるから、国民は天皇にしかるべき憲法の草案を上奏し御聖断を仰ぐことは出来ても、自らこれを投票による多数決によって制定することは出来ないのではないか。
こう聞けばよかったものを、いざ質問に立つと眼前にいる桜井氏の美貌とオーラに威圧され、話の前段をみんなはしょって「そもそも国民に憲法を変える権利があるのですか」と最後の部分だけを言ってしまった。すると、氏は質問の趣旨が解せないといった風で怪訝な表情を浮かべ、むしろ筆者を憲法の改正に反対している左翼分子と取り違えたらしい。会場は、なんでこんな所に左翼が一匹紛れ込んでいるのか、早くつまみ出せ、といった不穏な空気に包まれた。
あれからだいぶ時間が経ったが、筆者が桜井氏等を筆頭とするいわゆる親米保守の論客に対して抱いた疑念はいまだ晴れていないばかりか、かえって増幅する一方である。
彼らに共通して内在する矛盾は、一方でわが国の御皇室を中心とした共同体の価値を称揚しながら、その一方ではアメリカが掲げる「自由と民主主義」といった価値を、何の臆面もなしに人類普遍の道徳的理想といって憚らないことである。こういうと彼らは容易に十七条憲法や五箇条のご誓文を持ち出して、わが国の歴史にも、彼の「自由と民主主義」に通じる要素があったなどと平気で言ってのけるが、そんな方便はまったくの詭弁である。
というのも、アメリカが掲げる「自由や民主主義」は、暴徒化した市民が、主君たる国王に謀反を起こして簒奪した所産である。対するにわが国民に保障されたもろもろも自由や権利は、国民が尊崇敬慕するところの天皇から拝借したものであって、あくまでもリースに過ぎない。このように全く相反する性格の両者のどこに、相通ずる要素があるというのか。
先の所信表明演説のなかで、安倍首相はいつものように「自由と民主主義という普遍的価値を共有するアメリカ」という表現を使った。上記のように、わが国の国体に対する真摯な研究と、的確な認識があるのであれば、たとえ冗談やリップサービスでもあんな表現は使うはずがない。国家の宰相として不見識である。
この国体に対する見識の欠如があるから、彼らは国民主権によって憲法を変えることが出来ると誤解しているのであり、またそれが保守を自称する自分たちの政治目的を真向から否定するものであることに気がつかないのである。