○三種の神器について
三種の神器の一つである「草なぎの剣」の起原について申しますと、はじめ、伊弉諾(いざなぎ)と伊弉册(いざなみ)の命(みこと)が天の浮橋に立って大海原をかき回した矛を、天孫、瓊瓊杵(ににぎ)のみことが葦原の中国(なかつくに、わが国のこと)に降臨した際にもたらしたのが記紀に記された神剣の由緒であります。また記紀には、高天原から出雲に追放された素戔嗚のみことが八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したときに、切り裂いた大蛇の体から剣が出てきたので、これを天照大神に献上したとありますが、これも草なぎの剣です。のち、垂仁天皇の御代に至り、倭姫がご神鏡をお移しするため諸国を巡っておられたところ、大田命(猿田彦の御子孫です)の案内で辿り着いた伊勢の五十鈴川の河上において、偶然にもこの神剣が発見されました。もっとも、こうして神剣が三種の神器の一つとしてわが国に伝わった由来について、神皇正統記は「世に伝ふといふことは覚束なし」と言って、余計な詮索はしておりません。
三種の神器は、この神剣と勾玉、そして鏡からなりますが、それぞれの意味を説いた正統記の記述を引用しましょう。曰く「鏡は一物をたくはえず、私の心なくして、万象を照すに是非善悪の姿あらはれずといふ事なし。その姿に従ひて感応するを徳とす、これ正直の本源なり。玉は柔和善順を徳とす、慈悲の本源なり。剣は剛利決断を徳とす、知恵の本源なり。」
しかし三種の神器の中でも最も重要なのは鏡だといいます。その理由については
「中にも鏡を本とし、宗廟の正体と仰がれ給ふ。鏡は明を形とせり、心性明らかなれば、慈悲決断はその中にあり(心だに明であれば慈悲を加ふべき所には慈悲を加え、決断すべき所には果断をするから、鏡の徳の中に刃と玉との徳は含まれるとの意)」と言っています。
○「君子不死の国」
神皇正統記には、第七代孝霊天皇の御代に隣国シナで秦王となった始皇が、仙方(仙術)を好みて、長生不死の薬を日本に求めた話が出てきます。これに関して親房は「凡そこの国をば君子不死の国ともいふなり」 と述べておりますが、勝手な推測をすると、実は始皇帝が我が国に求めた長生不死とは、皇統無窮のメタファーではなかったかと思えます。周知のように秦王は紀元 前221年にシナを統一して最初の皇帝、つまり始皇帝となりますが、秦の命脈は二代で途絶えます。
第十代崇神天皇の御代にそれまで「同床共殿」を旨としてきた三種の神器が皇居から神宮に移されたのは、三種の神器を皇位に御徴としてきた我が国の歴史の 中で大きな転機になったと思われます。まず鏡に関しては崇神天皇の皇女、豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)が最初大和の笠縫邑(かさぬいのむら)に お移しし、その後、前述したように、垂仁天皇の皇女大倭姫命(やまとひめのみこと)が天孫ニニギノ命を高千穂にご案内した猿田彦命の末裔とされる太田命(おおたのみこと)の 案内で、五十鈴川の川上に奉斎しました。これが今年式年遷宮を迎える伊勢神宮の縁起であります。
○日本武尊の早世と神功皇后の三韓討伐
景行天皇の皇子である日本武尊が早世されたことで、神武天皇以来続いて来た天子の御子による皇位継承の伝統が崩れます。それは景行天皇の後を継がれ た第13代成務天皇が、その後を日本武尊の御子である仲哀天皇に譲ったことで起こりました。皇位の長子継承という原則は、あらぬ内乱騒擾を防止するという 意味で国家安寧の基であります。そこで親房も上述の変則的事態を重く見、以後ご歴代の表記に際しては、父子の継承を「世」、皇位の継承を「代」というよう に、「凡の承運とまことの継体とを分別」(注)しております。例えば、応神天皇の場合は、第16代第15世といった感じです。
さて仲哀天皇の御代、熊襲(くまそ、九州の蛮族)がまた反乱を起こしたため、天皇は筑紫までご親征遊ばされました。そのとき皇后息長足姫尊(お きながたらしひめのみこと)に託宣が下ります。内容は、「これより西に宝の国あり、伐ちて随へ給へ」云々というものでした。ここでいう宝の国とは新羅のこ とで、金銀宝物が多くあるのでそう言われたのでした。しかし天皇はこの託宣を信用し給わず、筑前の行宮(仮初の皇居)でお隠れになります。日本書紀は、こ の急逝について、神の言葉を疑い信用されなかった祟りではないかと書いています。
天皇お隠れの後、息長足姫尊、すなわち神功皇后は託宣を奉じて新羅、百済、高麗の討伐に赴かれます。韓半島の三国を攻めたので我が国ではこれを 一般に「三韓討伐」と称しております。三韓討伐に際して、皇后は仲哀天皇の御子を身籠っておられました。後の応神天皇であります。日本書紀によると皇后は 臨月の御腹に石をあてがい、神に祈願して出産を遅らせましたとあります。おそらくは石で胎内を冷やしたのでしょう。かくして苦難に満ちた海外遠征の結果、 我が国は朝鮮に屯倉(みやけ、朝廷の直轄領)を獲得し、三韓は我が国への朝貢を怠らなくなりました。
ところで神功皇后をご歴代の天皇にカウントするかどうかについては見解の相違があるようです。評者の大町桂月氏は、大日本史が神功皇后を歴代の 天皇には加えなかったことを卓見とし、神皇正統記でも第56代清和天皇の條で皇后は幼い応神天皇の摂政だと書いているのに、第15代にカウントしているの は自己矛盾であると説いています。