『高度国防国家戦略』④

○[産業資本主義VS金融資本主義]の経済的構図
90年代初頭に我が国の金融バブルが崩壊すると、アメリカの宣伝に呼応するかのような構造改革論が猖獗を極め、その熱狂は近年の「小泉改革」で頂点に達した。「構造改革」論は、所謂「失われた十年」の原因を、政府と癒着した供給サイドに巣食う非効率性に求め、旧来システムの「創造的破壊」による生産要素の「新結合」を企図するものであった。しかし近年のデフレ不況の原因は、実体経済の停滞というよりも、資産デフレに端を発する金融経済の収縮によるものである。また上述した主流派経済学の基本命題(「競争的市場が全ての経済主体に効率的資源配分をもたらす」)は、「産業主導型成長モデル」に依拠する我が国経済には妥当しないばかりか、むしろ日本と「金融主導型成長」に依るアメリカは、ゼロサム的な相反関係に立つものである。というのも、「構造改革」による金融市場の自由化は、アメリカの金融界に莫大な商機拡大をもたらし、「双子の赤字」によってアメリカから垂れ流される国際資本の「帝国循環」を成り立たせる反面、同様の事実が我が方にとっては、設備投資の元手となる国民の貯蓄資産の海外流出と、株式市場に於ける企業価値の不安定化を意味するからである。金融資産価値の乱高下は、生産に必要な資金の調達コスト(取引コスト)を高めるだけでなく、実体経済の堅実な成長を妨げる。他にも、金融市場の肥大化は国際貿易に於ける為替リスクを高めるが、それは我が国のような輸出依存国にとって死活問題である。

○[日本共同体主義VS西欧個人主義]の文化的構図
そこで構造改革に与する経済学者は言う。「市場メカニズムは産業構造を高次化し、我が国の主力産業を製造業から金融・サービス業に転換する」と。しかしこうした言説は、一国の経済システムを、その他に全体の社会(体系)を構成する政治的・文化的システムから切り離す「専門主義」の誤謬を孕んでいる。前述したように、戦後我が国に於ける経済システムの代名詞となった「日本株式会社」は、国民の文化や価値観を映し出す鏡であった。経済システムが適切な政治的統制を通して国民の文化的信念を保存し、またそれとは逆にそうした文化的信念が諸所の「外部性」(価格メカニズムの外部に生じる諸所の社会的コスト)を削減して経済システムを効率化するという、経済と文化の「相互補完性」がそこにはあった。文化(慣習、価値観)は国民に存在の意味と行動の指針、道徳的確信を与える社会的安定性の基盤である。よってこの文化は、国家を介して経済と一体不可分に結びついているのであるから、「技術的合理性」に基づいた直截な経済改革は、必然的にその国の文化に抵触し、社会的安定の基盤を破壊しかねない。実際「構造改革」は、カネ、労働、資源といった、「社会的諸実体」(ポランニー)を商品化し、市場経済の安定を下支えする政治的・文化的基盤を利潤・効率化原則の下に世俗合理化した。文化は歴史的地層から根こそぎにされ、国民精神にはニヒリズムが進行している。
もう一つ重要な点は、市場の自律性を説く純粋経済学が、一見「価値中立的科学」の外観を装いながら、実際にはそれらの理論的範型が生成した西欧社会の文化的価値観を色濃く映し出しているということである。いうまでもなく、それはユダヤ=キリスト教的な「自己決定」の教義である。経済学者は「科学」を標榜する「専門主義」の主体でありながら、決して自己の生れ落ちた社会の価値観から自由になることは出来ない。彼らは競争的市場が、世界の多様な国家や文化を超越して「普遍」的に妥当すると信じて疑わないが、所詮はそうした「客観性」を装うレトリックによって自らの「特殊」な文化的価値観を押しつけているに過ぎないのだ。
尤も、生産要素の商品化に至る先鋭化した市場経済は、結局彼ら(経済学者)の意図に反して労働者から自己を疎外し、「自己決定」の信仰自体を不可能にしている。詳細は後述するが、ここでは示唆的に、「特殊歴史的な文脈を有する文化を普遍化する形で文明が呱々の声を上げたが、やがて文明はその普遍性に於いて産みの親である文化を弑した。しかし文化を離れた文明は不可能であるから、結局文明は自ら破滅してしまった」というに留める。これは、神が人間を生みながら、人間が父なる神を殺した結果、人間が人間でなくなってしまうという近代のアポリアの一表現である。

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