山本七平『現人神の創作者たち(上)』覚書2
「絅斎が「文王・拘幽操」を絶対化し、(佐藤)直方はむしろ「武王・湯武放伐論」を当然としていた」(146)
→直方的には「日ノ神ノ託宣ニ、我子孫ヲバ五百万歳守ラント被仰タナレバ、ヨクナイコトゾ。子孫ニ不行義ヲスルモノアラバ、ケコロ(蹴殺)サウト被仰タナレバ、ヨイコトゾ」(147)
「神武天皇以来姓ハカハラネドモ、弑逆簒奪挙テ数フベカラズ。」(149)
→「「ヨクナイコトゾ」と言わずに神儒契合となれば、天は天皇と無媒介的に一体化され、終極的には「現人神」ができてしまう。」(148)
「孔孟程朱の道は天地不易で万国普遍の道であり、この前には日本・中国の差などは、はじめから問題にならない。日本の特殊性を主張して「孔孟の教えの土着化」などを主張するのはばかげた話で、逆に孔孟の教えで日本を律すべきなのである。朱子学を絶対とするなら、そう考えない方がおかしいのであって、そう考えれば、徳あるものが天子の位につくのが当然なのだから、「百王一姓は万世一系」などとはまことに下らぬことになる。」(160)
→皇統の本質は血統か道統かという論点に波及
「「天カラ見タ時ハ天皇ハ家老、将軍は用人物頭ノ様ナモノ」となるであろう。そうなれば「天カラ放伐ヲ命ゼラレタレバ」将軍は天皇を討伐してよいことになる。」(168)
逆に湯武放伐を否定し拘幽操を奉じる絅斎は「君は君たらずとも臣は臣たらざるべからず」となり、「炯斎の大きな特徴は、闇斎が論理的につめた朱子学の正統論を一歩進めて、幕府を「簒臣」と規定したことであり、明治維新への第一歩はこのとき、すなわち彼が『靖献遺言』を刊行した元禄元年(一六八八年)にはじまったといってよい。」(194)(cf.劉因の殉忠)
「彼にとって政治は宗教ではあっても、統治の技術ではない。「天下を丸めた」からといって、また「明君英主」だからといってその者に正統性があるわけではない。」(217)(cf.永楽帝対方孝孺の対決)
攘夷か和睦か
「浅見絅斎が「謝枋得」編で長々と記した宋滅亡の経過とそれへの朱子の批評である。ここでは北方の金と講和を策する和平派は全部売国奴でその象徴が秦檜であり、李綱や尽忠報国の岳飛に象徴される軍人はみな愛国者なのである。従って、軍人の言うとおりにしていれば、
謝太皇太后が国を元に献じて滅びるような事態にはならなかったであろうという結論が一応出てくる。」(257)
「いわば攘夷は一種の判別用試験紙であり、これによってその人が「本物の尊皇」か「にせものの尊皇」かが分けられる。」(261)
「古より国家の敗亡を見るに、その失、講和より甚だしきはなし。・・・」(269)