『神皇正統記』を読む⑩

冷泉天皇以下第六十三代冷泉天皇は、村上天皇第二の御子にまします。神皇正統記はこの天皇より以降、崩御せられた上皇には天皇の尊号を奉らず、院号を以って追号する慣わしに変わったと述べており、したがって冷泉天皇は、第六十三代冷泉院というように、それ以降の上皇もすべて院号を以って表記しております。正統記が「尊号を留めらるゝ事は、臣子の義にあらず」と批判したこの慣わしは、大正時代に改められ、上皇にて崩御された天皇も全て天皇の尊号を奉るように改められました。

次に、第六十四代円融天皇は村上天皇第五の御子にましますが、ご譲位の後、出家し給います。この天皇が出家し給うたのは譲位の後でありましたが、御位を継がれた第六十五代花山天皇は、ご在位二年の途中にして俄かに発心し遊ばされ出家し給い、そのまま遁世してしまわれます。評者の大町氏は、この天皇の出家について、「仏教の皇室を毒する花山天皇に至りて極まれり」と述べておりますが、ことの背景には、寵愛しておられた太政大臣藤原為光の娘、藤原祇子が亡くなったのを痛く悲嘆しておられた天皇に出家をそそのかし、自らの外孫で円融天皇第一の御子にまします一条天皇を即位させんと企んだ関白、藤原兼家の陰謀がありました。

かくして兼家の目論見どおり、一条天皇が第六十六代天皇として即位し給い、兼家は摂政の地位を手に入れます。続いて兼家の後継者である藤原道隆は関白を務めましたが、後にその地位を継いだ道隆の弟、藤原道長は、「延喜、天暦の昔を思召しけるにや、関白はやめられにき」と正統記は記しています。

一条天皇御譲位の後、ご即位遊ばされた第六十七代三条天皇は、冷泉天皇第二の御子にましますが、この方も摂政兼家の外孫であらせられます。しかし朝廷の実権は、藤原道長が掌握しており、彼は天皇の外祖父になることによって自らの権力を不動のものにしようと企み、あろうことか目の御病を理由に三条天皇をご退位に追いやり、自らの娘である藤原彰子と一条天皇の間に生まれた御子、すなわち道長の外孫を第六十八代後一条天皇として即位させました。これより前、三条天皇には御子の太子がおられましたが、神皇正統記は「心と遁れて」皇位を辞退せられたかのように記しております。そしてさらには、これによって冷泉天皇の御嫡流が絶たれた理由を悪霊の怨念のせいにしておりますが、上述したような道長の謀略については、一言も触れておりません。

これは神皇正統記全体について言えることなのですが、親房はかつて栄華を誇った藤原氏の専横について批判的な視点を欠いております。藤原氏は御子がなかった後一条天皇の後を継がれた弟君の第六十九代後朱雀天皇のくだりに、「天皇賢明にましましけるとぞ。されどそのころ執柄権を恣にせられしかば、御政の跡きこえず、無念なることにや」と記してありますが、あえて言えばそれだけであります。

それどころか、「わが国は、神代よりの誓にて、君は天照大神の御末国をたもち、臣は天児屋の御流君を輔け奉るべき器となれり」と述べて、さながら藤原氏の権力が我が国の宿命であるかのような書き方をしているのであります(村上天皇のくだり)。

これは勝手な推測ですが、親房が藤原氏に甘いのは、彼自身が神皇正統記のなかで述べているように、具平親王の子である北畠師房(もろふさ)がその娘を藤原頼通に嫁がせたことから、道長、頼通の子孫は、北畠氏の外孫となり、藤原氏と浅からぬ血縁を有していることによるものと思われます。事実親房は、はっきりと「御堂(道長)、宇治(頼道)をば、遠祖の如くに思へり」と述べております。

かくして朝廷で藤原の道長、頼通父子が望月を詠んでいる間に、地方では少しづつ朝廷の支配にほころびが生じ、それは後朱雀天皇第一の御子として皇位を継がれた第七十代、後冷泉天皇の御代に、顕在化します。すなわち、奥州安倍氏の反乱に端を発した前九年の役がそれであります。この戦役で朝廷から鎮守府将軍に任命され、安倍氏討伐に赴いた源頼義こそ、かつて平将門討伐に手柄のあった清和源氏の元祖、源経基(つねもと)の曾孫であります。
 

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