『神皇正統記』を読む⑬

後鳥羽天皇以下○三種の神器再論

安徳天皇壇ノ浦で入水遊ばされたによって、三種の神器の一つである草薙の剣は海底に沈んだまま終に発見されませんでした。しかし、このとき海に沈んだのは、崇神天皇の御代に模造された神剣であり、本体は熱田神宮にあったので無事でした。

正統記に曰く「そのころほひは、昼(ひ)の御座(おまし)の御剣を、宝物に擬せられたりしが、神宮の御告にて、神剣を奉らせ給ひしによりて、近頃までの御守なりき」。すなわち、神剣が沈んで以降、昼御座の剣を神剣の代わりとされたが、神宮、ここでは伊勢神宮の御告げによって神宮より奉った神剣に代えられたとのことであります。神宮の御告げがあったのは、第八十三代土御門天皇の御代のことであります。

さらに正統記は、後鳥羽天皇の條で、三種の神器の縁起を再論しておりますが、それは以下の通りです。

まず御神鏡である八咫の鏡の本体は伊勢神宮にましまし、神鏡を奉納する御所の内侍所(現在の賢所)にましますのは、神剣と同じく崇神天皇の御代に鋳造し替えられたものです。すでに前稿でも言及いたしましたが、内侍所の御神鏡は、村上天皇の御代である天徳年中と御朱雀天皇の御代である長久年中に火事に遭い給いましたが、神明の加護によって破損を免れました。このように、御所の神鏡は、変遷がありましたが、「正体は恙なくて、万代の宗廟にまします」。

宝剣は、上述の通りです。そして、神璽こと八尺瓊の勾玉は、「神代より今にかはらず、代々の御身を離れぬ御守なれば、海中より浮び出で給へるも理なり」と記してあります。

したがって、「なべて物しらぬたぐひは、上古の神鏡は天徳、長久の災にあひ、草薙の宝剣は海に沈みにけりと申し伝ふること侍るにや、かへすがへすも僻事(ひがごと)なり」と述べ、天照大神が、宝祚(皇位)の天壌無窮に栄えまさんことを大詔せられたからには、その宝祚の御徴(みしるし)である三種の神器は決して欠けることはないのだと断言しております。

さて後鳥羽天皇御譲位の後に践祚せられたのは、御子にまします第八十三代土御門天皇にあらせられます。しかしこの天皇は御在位いくばくもなくして、後鳥羽天皇第三の御子にまします第八十四代順徳天皇に御譲位し給いました。この天皇の御代、すでに権門は源頼朝が開祖した鎌倉幕府に移っておりましたが、頼朝の次に将軍を継いだ源実朝が公暁によって暗殺され、頼朝の血筋が途絶えたことで、実権は執権の北条氏に移りました。

正統記によると、実朝暗殺の後、北条政子の弟である北条義時は、新たな将軍として「(後鳥羽)上皇の御子を下し申して、仰ぎ奉るべき由奏しけれど、不許にやありけむ、九条の摂政道家の大臣は、頼朝の時より外戚につづきて好みおはしければ、その子を下して扶持し申しけり」とありますが、かくして、以後の鎌倉将軍は頼朝の縁戚である九条家から迎え入れる慣わしになりました。無論、北条の傀儡としてです。

順徳天皇が譲位遊ばされた直後に承久の乱が起こります。周知のように、この承久の変は、後鳥羽上皇による朝政回復の御企てのことでありますが、これに失敗せられた上皇は、幕府によって隠岐に配流せられ、御子の天皇にまします土御門天皇は阿波、順徳天皇は佐渡へとそれぞれ配流せられました。また順徳天皇の譲位を受け給うた太子の御子も、ご即位後まもなく、幕府によって廃位させられ、正統記もただこの御方を廃帝とのみ称しておりますが、明治三年になって仲恭天皇の尊号が奉られました。この追号によって、現行の皇統譜では、仲恭天皇が第八十五代に数えられておりますが、正統記では、次の後堀川天皇を八十五代に数え、ずれが生じております。

○前代未聞の人臣廃帝

廃帝といって想起されるのは、淡路廃帝こと淳仁天皇でありますが、この天皇が廃位されたのは、道鏡の奸計が背景にあったとはいえ、名目的には孝謙(称徳)天皇の御沙汰によるものでありました。しかし、仲恭天皇の廃位は、名実ともに人臣である北条氏の所為であり、それのみならず、北条氏は、上述のように、後鳥羽、土御門、順徳の三帝を配流しているのであります。これについては、評者の大町氏も、「流され給ひし天皇の例は奈良朝に淳仁天皇あり、平安朝に崇徳上皇あれども、その挙天皇より出づ。北条義時に至っては、陪臣の身を以て後鳥羽、土御門、順徳の三上皇を流す。古今無類の暴逆也」と述べております。ここでいう陪臣とは、臣下の臣下のことで、北条が天皇の臣下である鎌倉将軍のさらに臣下であることを指しています。そんな分際に過ぎない北条が天皇を流すとは何事かということです。

ところが、忠臣たる親房にして不可解なことに、正統記では、北条のような陪臣風情に天下を掌握された後鳥羽上皇の御軫念(しんねん)に対する同情は示しつつも、白河、鳥羽の御代の頃から乱れ始めた天下を太平にして宸襟を安んじ奉った頼朝の功績は大きく、幕府は徳政を敷いたから、実朝暗殺の後も背く者がなかった、そして「これにまさる程の徳政なくして、いかでたやすく覆さるべき」、また頼朝を将軍にしたのは後白河天皇であり、彼に科(とが)はない、むしろ、幕府が朝廷よりも下だからというだけの理由で、幕府を討つのは朝廷の科だし、天も許さないだろう、よって「まづ誠の徳政を行はれ、朝威をたて、かれを克するばかりの道ありて、その上の事ぞと覚え侍る」、つまり幕府を倒すまえに、失墜した朝廷の威信を立て直すのが先だと述べているのです。

またその際、親房は、実朝亡き後の幕府にあって、その基礎を確立した人物として第三代執権の北条泰時を高く評価し、次のように述べています。いわく「泰時心正しく政すなほにして、人をはぐくみ物におごらず、公家の御事を重くし、本所の煩をとどめしかば、風の前に塵なくして、天の下則ち静まりき。かくして年代を重ねし事、偏に泰時が力とぞ申し伝ふる。・・・かの泰時相続きて徳政を先とし、法式を堅くす。おのれが分をはかるのみならず、親族並にあらゆる武士までも戒めて、高官、高位を望む者なかりき」。

さらに親房は以上の認識を敷衍して、広く我が国における君臣の関係に説き及び、彼の根本思想を披瀝すること以下の通りであります。長文の引用ですが、正統記全体で極めて重要な箇所です。

「神は人を安くするを本誓とする。天下の万民は皆神物なり。君は尊くましませど、一人を楽しましめ、万民を苦しましむる事は、天も許さず、神もさひわひせぬいはれなれば、政の可否に随いて、御運の通塞あるべし覚え侍る。まして人臣としては、君を貴び、民を憐み、天にせぐくまり、地にぬき足し、日月の照すを仰ぎても、心のきたなくして、光に当らざらむ事をおぢ、雨露の施すを見ても、身の正しからずして、恵に漏れむ事を顧みるべし。朝夕に長田(ながた)狭田(さだ)の稲の種をくふも皇恩なり。昼夜生井(いくい)栄井(さかい)の水の流を飲むも神徳なり。これを思ひも入れず、あるに任せて欲を恣にあし、私を先として、公を忘るゝ心あるならば、世に久しき理侍らじ。況や国柄をとる仁に当り、兵権を預る人として、正路を踏まざらむにおきては、いかでかその運を全くすべき」。

以上を見れば一目瞭然ですが、親房は「正直」を重んじる伊勢神道の影響を濃厚に受けております。

さて、承久の乱によって、幕府は、当時後鳥羽系以外で唯一の皇胤にましました高倉天皇の御孫を推戴して第八十五代後堀河天皇が即位し給いました。しかしこの天皇は、二十一歳にして早世せられたため、太子の御子が第八十六代四条天皇として即位し給いましたが、この天皇も十二歳で早世し給い、その結果、御位は土御門天皇第二の御子が継がれて第八十七代後嵯峨天皇として即位し給うたため、皇統の正系は後鳥羽上皇の御血筋に復しました。

その後、この天皇は譲位して院政を敷き給い、次の第八十八代には後嵯峨天皇の第二の御子にまします後深草天皇が即位し給いましたが、御病を煩われたため、御位を同母の御弟にまします第八十九代亀山天皇にお譲りし給いました。

さらに亀山天皇の後を継がれた御子の第九十代後宇多天皇の御代に、蒙古襲来がありましたが、台風によって元軍が壊滅敗退したことを、正統記は「神明威を顕し形を現して防ふがれけり。・・・末世とはいへども神明の威徳不可思議なり、誓約(天壌無窮の神勅のこと)のかはらざる事、これにて推し量るべし」と記しております。

かくして神皇正統記、第五巻は終了し、次に最終巻たる第六巻に進みたいと思います。


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