前述いたしましたように、後嵯峨天皇は、御位を亀山天皇にお譲り遊ばされましたが、亀山天皇には兄君がおわしましたため、悌順(ていじゅん、兄に従うこと)を重んじる思し召しから、御位をその御兄の御子にお譲り遊ばしました。かくしてご即位遊ばされたのが、第九十一代伏見天皇にあらせられます。
そしてこれ以降、皇位は亀山天皇の御系統である大覚寺統と、後深草天皇の御系統である持明院統が交互に継承し給う慣習となります。しかし、建武の新政が挫折し、大覚寺統に連なる後醍醐天皇が南遷し給うたため、足利方はこれに対抗して、持明院統に連なる第九十三代後伏見天皇(前述の通り正統記は仲恭天皇を御歴代にカウントしていないので第九十二代)の皇孫を北朝の天子に据え奉りました。とすれば、伏見天皇のご即位に発する両統交立は、結果的に南北朝間の対立の温床になったことになります。
こうして伏見天皇の後には、第一の御子が第九十二代後伏見天皇(持明院統)としてご即位し給い、またその後には後宇多天皇第一の御子が第九十三代後二条天皇(大覚寺統)としてご即位し給いました。さらにその後には、伏見天皇第三の御子が第九十四代花園天皇(持明院統)としてご即位し給い、その後で御位を継がれたのが、後宇多天皇第二の御子で、後二条天皇の御弟にまします第九十五代後醍醐天皇にあらせられます。
周知のように、後醍醐天皇の下で、楠木や新田など数多の忠臣義士が活躍いたしましたが、親房は正統記のなかで、それらのことをあまり多く表彰しておりません。それは親房が、そもそも武士という存在が建武中興に果たした役割に対して抱いていた以下のような見方が原因だと思われます。いわく「関東の(北条)高時、天命既に極りて、君の御運を開きし事は、更に人力といひ難し。武士たる輩、いへば数代の朝敵なり。御方に参りてその家を失わぬこそ、ありあまる皇恩なれば、更に忠を致し労を積みてぞ、理運の望をも企て侍るべき。然るを天の功を盗みて、おのが功と思へり」。つまり、建武中興は天佑神助によるものであり、武士は分を弁えねばならない。
にもかかわらず、「この頃よりのことわざには、一度軍にかけあひ、或は家の子郎従節に死ぬるたぐひもあれば、わが功におきては日本国をも賜え、もしは半国を賜はりても、足るべからずなど申すめる」。つまり、勲功を誇る武士たちの欲が際限もなく増長して、朝廷も手に負えなくなっていると云うのであります。
あるいは、こうした見方が根底にあったからこそ、親房は陪臣にもかかわらず天下を掌握した北条氏について「義時などはいか程もあがるべくやありけむ、されど正四位下左京権大夫にて止みぬ。まして泰時が世になりては、子孫の末をかけてよくおきて置きければにや、滅びしまでも、終に高官にのぼらず、上下の礼節をみだらず」云々と述べて肩を持っているのです。
さても、本書、神皇正統記は、最後に後醍醐天皇第八の御子にましまし、吉野でご即位遊ばされた天皇の記述をもって終わります。この天皇は第九十六代後村上天皇にあらせられますが、親房が正統記を書いたのは、この天皇がおはします間でありましたので、無論尊号は奉っておりません。後村上天皇は、かつての義良(のりなが)親王にましまし、北畠親房、顕家父子に奉じられて、東国の平定、足利討伐に挺身尽力し給いました。村上天皇の末裔である北畠氏が、後村上天皇を奉じて朝敵と戦うというのは、いかにも歴史の因縁というべく、また皮肉ともいうべきであります。
以上、神皇正統記を通して、神代以来、後村上天皇の御代に至る我が国の歴史を通観して参りました。これは私見ですが、正統記を通して親房が説いたのは、畢竟、君臣が各々の分を守りながら私欲を廃して、「正直」に生きることが、天照大神の御心に適う行いであり、君臣のいずれかまたは両方が、その道から外れたときに国家は禍乱を来すという歴史の教訓ではないでしょうか。そうした意味で、国家の浮沈隆替は、詰まるところ、物的環境の変化に起因するのではなくて、人心の如何によるものと云えましょう。親房は言います。「世の中の衰ふると申すは、日月の光のかはるにもあらず、草木の色の改まるにもあらじ、人の心のあしくなり行くを、末世とはいへるにや」。私は、これを今日の日本にも通用する千古の箴言であると思うのです。(終)