山崎闇斎によって創始せられた崎門学は、弟子の浅見絅斎によって継承されましたが、絅斎は厳格な朱子学の教理を重んじ、闇斎の神道的側面、すなわち垂加神道の蘊奥には到達されませんでした。そうしたなかにあって、絅斎を直接の師に仰ぎながら、闇斎の神道説を継承して崎門学を確立し、これを弟子たちに相伝した人物が若林強斎であります。
強斎は、延宝七年(1679年)、京都で医業を営む父、正印の長男として生まれました。近藤啓吾先生は『若林家譜』をもとに、強斎の家系について、次のように述べておられます。
「『家譜』によれば、強斎の祖父浄本は、近江大藪の北村道運の次女絲を妻として北村氏を襲ぎ、同氏がもと武田信玄の家臣であったので、一家を再興して先祖の令名を顕せとその子正印に命じ、而して正印も、父の志を重んじてその子強斎に、これを期待したといふ。また『家譜』には、正印は初め医を業としてゐたが、後、眼を病んで失明したため、衣服を典売しなければならないほどの貧窮に陥ったが、少しもこれに動揺することなく、強斎姉弟の頭を撫でてその成長を娯しみ、且つ強斎に三種の大祓と奉幣の儀とを伝えしめたとある。然らば強斎が、生涯を通じて清貧であったにもかかはらず常に従容としてゐたこと、かつ士風を重んじ神道を尊んだことは、その家風に受けるところが極めて大きかったものといふことができよう。」(近藤啓吾『若林強斎の研究』神道史学会)
父正印が医業を営んでいたので、強斎は比較的豊かな幼少期を過ごしたようです。元禄十五年、強斎二十四歳のとき浅見絅斎の門に弟子入りし、爾後絅斎が長逝する正徳元年までおよそ十年間、従学しました。しかしその間、上述のように、父の正印が病臥に伏したのを機に、一家の経済は窮乏を極め、強斎は大津で父の看病を余儀なくされます。それでも彼は困難に屈せず、隔日に三里の道を京都に通い続け、絅斎への師事を怠りませんでした。
こうした強斎の態度は、彼の弟子である山口春水の筆録になる『雑話筆記』によると、京都における朝の講釈に出席するために大津を未明に出発し、夏には衣服と袴を刀の先にくくり付けて襦袢一枚で通い、また同門の近藤玄悦などには、もし大津街道に行き倒れた者があれば、必ずそいつは自分の事であると冗談を言ったほど、苛烈なものでした。「強斎」の号は、彼の苦学を知りながら、敢えて教えの手を緩めなかった師の絅斎が、強斎の強靭な意志を深く嘉して彼に与えたものです。
(崎門学研究会)