若林強斎先生について②望楠軒の創設

崎門学者系図

崎門学者系図

正徳元年に絅斎が没すると、京都の錦小路にあった彼の学堂(所在地に由来して錦陌講堂と呼ばれた)は、甥の勝太郎(兄道哲の子、号持斎)に委ねられました。強斎は予てよりその後見を遺嘱されておりましたが、不幸にも絅斎長逝の一年後、つまり正徳二年に勝太郎も二十歳の若さで長逝します。当時強斎は病床の身であり、他に絅斎の高弟であった大月履斎や山本復斎も京都を離れていたため、錦陌講堂は廃止のやむなきに至りました。

かくして一旦離散した門弟を結集し、荒廃した門流を再興すべく、強斎は病が全快した正徳三年、御所の真南に位置する堺町に一軒の家屋を購入し、そこに自らの学堂を開きます。この学堂は後に「望楠軒」と命名され、強斎亡き後も幕末に至るまで、崎門講習の本山とされました。

ちなみに望楠軒の名は、ある日、強斎がその門人である山口春水から楠木正成の言葉に「かりそめにも君を怨み奉るの心起こらば、天照大神の名をば唱ふべし」というのがあるのを聞いて深く感動したのに由来し、これについては春水が記した『雑話続録』にも、「書斎を望楠と号したり。我国士臣の目当は、彼の楠氏の一語の他、是なき事也。平生拙者身の守りにもと思うにつき、楠氏を仰ぎ望むの合点にて、書斎を望楠と号けし也」(原文カタカナ)という強斎の弁が収められております。上の引用にあるように、最初望楠軒は、強斎の書斎の名称でありましたが、やがて広く彼の学堂全体を指すようになりました。

強斎が師弟を教導する態度は、懇切に徹し、望楠軒の学統は、山口春水や西依成斎、沢田一斎等の門弟を通じて後代に引き継がれました。また強斎晩年の門人となった竹内式部が首謀した宝暦事件は、討幕運動の先駆的企図とされ、崎門が政治化する端緒を開きました。

望楠軒における強斎師弟の風格を物語る資料に、強斎自らが撰した『祭廣木忠信文(廣木忠信を祭る文)』があります。廣木忠信は、もともと絅斎門下、つまり強斎と同門でありましたが、強斎が望楠軒を創設してからは、彼の最初の門人となり、以来起居苦楽を共にし、師弟とはいえ互いに切磋琢磨した人物です。よって強斎の忠信に対する信頼は殊に厚かったのでありますが、享保十五年に母の介護のため帰省中の美濃で急逝しました。上記の祭文は、忠信の訃報を耳にした強斎が、生前の彼を偲び、霊前に奉告したものです。以下に一説を引用致しましょう。

「賢、何ぞにわかに余を捐てて逝ける。ああ哀しいかな。昔は賢、絅斎先生の門に学ぶ。未だいくばくならざるに、先生簀を易へたまふ。則ち又鄙とせずして来りて余に就いて学べり。ともに寝席を同じうし、互いに薪水を執ること、ほとんど九年なり。夏も扇がず、冬も炉に近づかず、艱難窮乏、日を合せて食ふこと時にこれ有り。賢、少しも屈せず、ます〱勉め、ます〱励む。而して余もまた依れり。雪の朝、月の夕、相ともに茶を瀹(に)、酒を暖め、経を議し義を論じ、今を悲しみ古を慕い、憤歎慷慨、心肺傾けつくし、相責むるに死生を以てせり。」

(崎門学研究会)

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