宮中における垂加学の浸透
これより先、宮中における垂加神道の普及は、垂加翁こと山崎闇斎の宿願であった。そして闇斎薨じて後、公卿の門人としてその付託に応えたのが正親町公通である。公通は闇斎の記した『風水草』を霊元天皇(第112代)のご覧に供し、「此の書は貴重なる事のみにて、容易の説に非ず」とのご嘉賞を賜った。また室町の戦乱以降、久しく断絶していた大嘗祭の再興を思し召された上皇をお輔けした朝臣、一條兼輝に垂加学を伝授したのも公通である(近藤啓吾先生「宝暦の変」『続々山崎闇斎の研究』所収参照)。
奇しくも、式部を京都所司代の松平輝高に告発した一條道香は、この兼輝の孫に他ならず、この一事を以ってしても、当時の宮中において、崎門垂加の学が如何に浸透していたか了察される。前述した、宮中における式部一派の台頭は、こうした従来の趨勢を敷衍し拡大した結果であり、この頃から、京都では、式部が門人の堂上方に軍学や剣術を講じ、鎧弓矢を調進しているなどと云ったあらぬ噂が乱れ飛ぶようになった。
式部の赤心、天聴に達す
先の一条関白による告発といい、都での不穏な流言といい、最早事態を看過できなくなった松平所司代は、宝暦六年十二月、京都町奉行に命じて式部父子を召し出し、世評の実否を尋問せしめたが実なく、結局式部は翌年の正月に釈放せられて事なきを得た。かくして幕府の嫌疑が晴れたことによって、式部一派の活動は却って勢いづき、同年六月には徳大寺、西洞院、及び白川の諸公卿が桜園天皇に日本書紀神代巻をご進講申し上げ、式部の学はついに天聴に達したのである。
この時の式部一派の感動は、『岩倉公実記』の記述によって知られる。いわく「六月帝始メテ『神代巻』ヲ御覧アリ、公城及ビ坊城俊逸・高野隆古・白川資顕等旨ヲ承ケテ輪番ニ之ヲ進講シ、皆式部ヨリ所伝ノ垂加流ノ学説ヲ用ウ。天顔殊ニ麗ハシク在ラセラレタリキ。公城等積日ノ志望始メテ達スルヲ得テ、欣喜ノ余、感涙袖ヲ湿スニ至レリ。式部竊ニ此進講ノ事ヲ聞キ、大ニ悦ブ。乃チ『奉公心得書』一篇ヲ作リ、血盟ノ堂上ニ示シテ以テ之ヲ奨励ス」(上掲、「宝暦の変」より孫引)。
式部所伝の日本書紀神代巻講義が如何なる内容であったかについては、後述する。ここでは以上で出てきた『奉公心得書』について触れたい。近藤啓吾先生によると、宝暦七年六月に認められたこの書は、「式部の第一回糺問は大事に至らず結了したるも、吉田家よりの式部排斥の運動もあり、摂関家の動きもおのづから式部の耳に入ってゐたことであらうから、式部はこの諸朝臣の感激最も赤熱した時に於いて、窃に御進講の志の挫折することあるを考え、みづからもその際の覚悟を固めるとともに、門下の諸朝臣にも、その際の態度のいかにあるべきかを告げんとしたものであることが察せられる」という(上掲「宝暦の変」)。次回、この『奉公心得書』の内容をさらに見ることにしたい。