『日本書紀第一講義』
朝廷における式部一派排除の企ては失敗に終わり、その結果、かえって勢いづいた式部の学説は天聴に達した。このとき、時の桃園天皇に対し奉る徳大寺や西洞院等、式部門下の堂上(公家)たちによる日本書紀のご進講はいかなる内容であったか。それを推測する手がかりとなる資料に、『日本書紀第一講義』と題する式部による講説の筆録が存在する。これは元文四年(1739年)、式部が二十八歳の時のものとされるが、その内容は垂加学の正説を概ね踏襲し、彼の思想的面目を充分に発揮するものである。
たとえば、第二冊四神出生章には「ここで我が国の天子の立様(たちざま)を見よ。あの方の様に土百姓でも聖人が有(あ)れば上(あげ)て位を譲ると云う様な詮議でない。日本のは生(うまれ)ぬさきから天下の主たる人を生(うむ)とある。天神の生処も常の人とはちがふじやによつて、・・・我国の天子と云者はとんと人間とは格別なもの。・・・じやによつて我国にも武烈天皇の如き天子が上にあるとき、下に湯武(とうぶ)の如き聖人が有て、なるほど武備を募てしばらく盛衰は有ふかなれども、根から天子になると云は、ほつてもならぬこと」(元は片仮名、振り仮名は筆者)とあり、後の『奉公心得書』に通じる崎門のエッセンスが認められ、また同章では「さて是を垂加翁の古素戔嗚尊(すさのおのみこと)の権、後世武家に移り、平清盛に始(はじまっ)て源頼朝に成(なる)と書れたが深くわけの有(ある)御詞(おことば)で、兎角これが日本のなりで上に日月の命は有ても下に金気の武備を以て治ねば成ぬ国也。・・・只今武家の権威を振ふと云はなさけないことなれども、過を見てこヽに仁を知で、古二尊の治(おさめ)させられた風がそれなりに変に成(なっ)たはわるけれども、其かたはうせぬ」と、朝廷に属する兵馬の権が武家に移ったことを「変に成た」と述べて暗に徳川の幕政を批判しているのである(松本丘『垂加神道の人々と日本書紀』弘文堂)。
幕府の奉行を感服せしめる
さて、先に式部一派の排斥を図った関白の一条道香は、式部門下の堂上方による進講の報に驚き、その不正を桃園天皇の母君である青綺門院(せいきもんいん)に訴えた。しかし天皇は彼らをあくまで忠臣として重用し給い、その訴えをお聞き入れにならなかったため、今度は前述した吉田神道の吉田兼雄と相計って再びこれを京都所司代に誣告し、幕府の強圧を以って朝廷から式部一派を追放することに成功した。さらに追及の矛先は当然彼らの師である式部本人にも向けられ、かくして宝暦八年、式部は息子の主税と共に京都の町奉行所に召し捕えられて尋問を受けることになったのである。
しかし事態は意外な進展を辿る。というのも尋問が進むうちに、奉行所の役人は式部の高邁な見識と決死の態度に感銘を受け、彼にある種の畏敬すら抱くようになったからである。式部が記した『糺問次第』によると、あるとき幕府が入手した式部の日本書紀神代巻講義の聞書きに、「礼楽征伐、諸侯より出ず」云々とある論語(季氏編)の一節が引かれていた。これは孔子が「天下に道のあるときは礼楽や征伐は天子から起こる。天下に道のないときは礼楽や征伐は諸侯から起こる。諸侯から起こるときは(そんなことがいつまでも許されるはずはないから)およそ十代までで失敗しないものはめったにない」(岩波文庫『論語』)と述べたもので、徳川氏を諸侯とすれば幕政批判とも受け取れる内容である。そこで奉行がその趣旨を問い質したところ、式部は「只今関東(幕府)より政事出候へば、諸侯より出ると申すもの、然れば危(あやうし)と外申し上げ様之無く候」と正直に答えたので、その場に居合わせた奉行たちは色を失い、さらに一国の政事を関東、すなわち幕府が仔細にわたって朝廷に相談すべきとは思わないが、国家の大事は勅命を請うて行うのが礼楽征伐が天子より出でて危うからざる仕方であると供述したので、役人どもはついにその説に感服してその旨を調書には記さなかったという。
(崎門学研究会)