次世代の党はなぜ負けたか。

先の選挙で次世代の党に一票を投じた。が、それにしても酷い負け方であった。たち上がれ日本が党勢拡大のために橋下と組んで日本維新の会を作ったものの、結局決裂し、かえって旧(もと)よりも党勢をだいぶ減じたというのは何とも皮肉な話である。敗北の要因は旗幟が鮮明を欠いたことにある。つまり保守政党を自認する自民党に対し、その補完勢力以上の存在たり得なかった。

もっとも、一概に敗北と言っても、勝負には二つの負け方がある。一つは大義ある戦い、すなわち正戦、ないしは聖戦での敗北。これは遠い昔で言えば湊川の戦いであり、近い昔で言えば大東亜戦争での敗北である。この場合、負けは負けでも大義は活きるから本当の負けではない、いうならば次につながる負けである。

しかし酷いのは、大義すらままならない負けである。これは目先の勝敗に目が眩んで、小手先の術策に溺れ、自滅するケースだ。残念ながら、今回の次世代の党の敗北はこの類に属する。

というのも、次世代の党の元祖であるたち上がれ日本は、自民党のネオコン路線と一線を画する真正保守政党として確たるレゾンデートルがあったが、石原の気まぐれで橋下と組み、またその後は山田一派と組むことによって対米協調、市場主義に傾斜し、自民党の現実路線との差異が曖昧になった。

安倍自民党は政権与党なのだから、彼らの立場がいきおい現実主義になるのは当然である。しかし野党はそうではない。彼らの役割は、建国の原理原則に立ち返り、国民に道徳的理想を示すことによって、現実に妥協した政府を対局から批判することにある。これを見て、現実に対して無責任と批判する向きもあろうが、さすれば政府は現実に重きを置くが故に、理想に対して無責任と言い得るだろう。要は朝野の役割分担の問題だ。

その上で、野党たる次世代の役割は、現実主義の名の下に、対米従属を続ける政府に対する批判の急先鋒たるべきであったが、口惜しくもそのお株は共産党に取られ、自らは多党乱立の中で埋没した。

今後次世代の党が、自民党と一線を画する真の保守政党として存続するのであれば、対米従属からの脱却こそ政策の最優先課題に据えなければならないだろう。それは第一に、米製の国民主権憲法を排撃し、現行憲法の改正ではなく飽くまでその破棄と明治憲法の復活を目指すこと、第二に在日米軍を完全に撤退せしめること、第三に、国家が米国金融資本から民族産業資本を保護し、国民経済を防衛すること、第四にアメリカによって分断された対アジア関係を修復し、主体的な食料・エネルギー外交を展開することを主眼とする。かくして現実よりも原理に忠実に、主張をより先鋭にしなければ、保守野党たる次世代の明日は来ない。

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