安倍首相は、中国を牽制しアメリカに擦り寄るときには決まって我が国が「自由と民主主義」の国であることを強調する。そこら辺の政治家がかくいうなら分かるが、問題は我が国における国柄の保守を謳う政治家の筆頭である安倍首相が、かくも安易に「自由と民主主義」を高唱して憚らないことである。では我が国の国柄における民主主義とは如何なるものか。首相の民主主義礼賛がそれらの深い反省に基づいたものとは思われない。
これに対して、近代日本を代表する言論人である徳富蘇峰は、敗戦直後の占領期に記した日記である『頑蘇夢物語』のなかで、徹底した皇室中心主義の立場から安易な民主主義の受容に対して根源的な批判を加えており、刻下の我が国にも通ずる極めて重要な所見を披瀝している。以下にそのエッセンスを引用する。
我が国は民主主義に非ず
まず、日本的民主主義について、「日本的民主主義という事は、如何なる意味であるか。民主という言葉は、君主に対する民主であるから、問題は民主といえば、民が主で君は従であらねばならぬ。君主といえば、君が主で民が従であらねばならぬ。二者その一を択ぶの外はない。英国では、民が主にして、君は従である。そして英国では、議会の意見で、王位を廃することも出来る。また立君制を廃して、共和制となすことも出来る。これに反して日本では、君が主である。民が従である。議会は決して我が政体を変更することは出来ない。また我が憲法も、君主自身の発議を経ざる以上は、決して議会自ら改正案を出すことは出来ない。若し果たして従来の儘で進行するということならば、憲法改正の必要がない。また従来の儘で行かず、民主的立君主義ということであれば、これは日本固有の国体とは相容れざる、正さしく名に於ても実に於ても、英国流の政体そのものを、鵜呑みにするものといわねばならぬ。しかるに何れともその性質を研究せず、ただ日本流の民主主義などという文句を製造して、お茶を濁し、日本側に向かっては、日本の政治は、君が主であるというように思わせ、内は日本国民を欺き、外は外国人を欺くものであって、洵に言語道断の沙汰といわねばならぬ。元来日本流の民主主義などというものが、存在する筈がない。日本流は飽く迄君主主義である。これに反して、貴族主義に反する平民主義ならば、なお訳は判っている。即ち立君平民政治といえば、所謂一君万民の政治ということが、明白に判る。かくすれば、即ち日本従来の政治が、立君平民政治を主としたるものであって、維新大改革の目的も、実にここに在ることは、五箇条の御誓文を見ても、分明である。」(昭和二十年十月十三日午後「対米従属の日本政府」)
一君万民としての平民主義。この観点で見ると、安倍政権、否、戦後の自民党政権は薩長の藩閥政治に類似した貴族政治だ。薩長政権が欧米列強に対する外交では従属的な一方で、内治では国民に対して武断専制的であったように、昨今の自民党政府も宗主国であるアメリカに対しては姑息な従属外交を演じながらも、陛下の赤子たる国民同胞は貧富貴賎の格差で断絶しようとしている。また蘇峰翁がいみじくも述べているように、我が皇室は「君臨すれども統治せざる」英国国王とは、全く似て非なる存在でありながら、畏くも先帝陛下が、英国流の立憲君主を理想とし議会中心の政治を思し召されたことに、大日本帝国の悲劇が起因するのである。