若林強斎先生『雑話筆記』を読む①(『崎門学報』第四号より転載)

『雑話筆記』は若林強斎先生の門人である山口春水が強斎先生より聞いた平生の諸話を筆録したものです。若林強斎先生は浅見絅斎先生晩年の門人であり、絅斎先生が没する正徳元年までの十年間従学しました。晩年の絅斎先生は、かつて神道に傾斜する闇斎先生を批判したことを懺悔し、自らも神道に開眼しましたが、結局は儒学の合理主義を脱し切れず、神道の蘊奥に達することは出来ませんでした。これに対して強斎先生もまた神道に傾斜し、上述した山口春水の紹介で祇園社社司の山本主馬から神道の伝を受けます。主馬は玉木葦斎より神道の伝を受け、さらに葦斎は山崎闇斎先生の神道の継承者である正親町公通卿の門人でありますから、かくして強斎先生は山本主馬の神道伝を通じて、闇斎先生の唱えた垂加神道の正統を継ぐことになりました。無論、闇斎先生の朱子学における継承者は絅斎先生ですから、一度神儒に分裂した闇斎学は、若林強斎先生によって再統一されたとも言えます。強斎先生は京都で「望楠軒」という名の私塾を開き、多くの門人を育成しました。上述した山口春水もその一人です。よってその春水の記した『雑話筆記』は強斎先生の思想と人物を知る上で極めて重要な資料であり、かつて近藤先生も小生等にこの『雑話筆記』を崎門学の必読文献として挙げられたのでした。
そこで小生は坪内兄と平成25年7月から本書の輪読を開始し、暫しの中断を挟みながらも本年1月にようやく読了致しました。テキストとしては、近藤先生が編纂された『神道体系論説編・垂加神道(下)』所収のものを使用しました。上述のごとく読了に時間がかかったのは、本書における独特な言葉遣いに加え、風水や易学の用語のために読解に苦戦を強いられたからです。したがって本書を読了したとは申しましても、殊小生に関する限りその理解は甚だ心許ありません。そこで本稿では、「『雑話筆記』を読む」と題して小生なりの読解の成果を発表し、以って諸賢のご批判を仰ぎたいと思います。なお、本稿で『雑話筆記』の本文を引用するに際しては、原文の片仮名(ヿなどの合略字やゝなどの踊り字を含む)を平仮名にし、漢字の旧字体も新字体に改めました。また漢文は読み下しました。これらは原文の忠実なる引用を重視する先学のお叱りを覚悟しての事ですが、読者の用に供するため、今日においてはそれが適当と判断しました。

まず、本書は巻頭に山口春水の序文を掲げ、この記録には強斎先生から口外無用と言われた箇条もあるが、そのなかには先生の思し召しを伺うべきこともあるので書き記すことにした。ついては先生を尊敬する同志の方々はみだりに本書を他に漏らさないよう、自分(春水)が死んだ後もお取り計らい願いたいと云った事が記されています。つまり本書は一般向けではなく、門人たちの間で回覧することを念頭に記されたようです。序文に記された年は宝暦辛已、西暦だと一七六一年になります。

次に本書は上巻の本文に移り、已亥正月八日の日付で強斎春水師弟の問答が始まります。最初に春水、昨日白馬の節会(あおうまのせちえ、毎年正月七日に天皇が紫宸殿に出御し、庭に引いた白馬をご覧になり、群臣と宴を催す行事)を拝見し、かたじけなくも天顔(天子様のお顔)を拝したことを報告したのに対して、強斎これを言祝いだ上で次のように述べます。「天照大神より御血脈今に絶せず統々つがせられ候らへば、実に人間の種にて之無く候。神明を拝せらるる如く思はるるの由、左こそ有る可きことに候。我国の万国に優れて自讃するに勝へたるは此の事にて候。余りに有難き物語を承るさへ感慨を催し候。返す返すも尊く覚え候」。しかしその後では「余に天孫綿々として絶えざることを云うとて、今の神道者など云う者が我国は神国じゃによって其の筈じゃと云うが是れは愚かなことにて候。丁度愛宕の札をはって我家は焼けぬはずじゃと云うに同じく候。いづくんぞ湯武あらざることを知らんや。其の上神国がそれほどあらたなことならば、何とて今日の如く王室季微になり下らせられ候や。・・・我国の自慢と云うは、衰えたりと云えども、幸いにご血脈が絶えいで、唐の堯舜の受禅、湯武の放伐の如くなることないと云う迄でこそあれ、今日では本願寺の勢いほどにもなき王室をいかめしく云うも片腹痛く候。」と述べ、朝廷に対してシュールな現状認識を抱いていたことが伺えます。つまり、強斎先生からすれば、なるほど万世一系の皇統は尊いが、それはただ神道者がするように弥栄を祈るだけでは護れない、事実、徳川の世になって現在の皇室は本願寺ほどの勢力に衰微してしまったではないかという事でしょう。この点について先生は、「日本の神道と云うものは孔孟の道とちがふて今日に切ならぬ処ある様なものにて候」と述べられています。

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