禅譲は晴天の花見、放伐は雨天の花見
次に強斎先生は、浅見絅斎、三宅尚斎と並んで崎門の三傑とされる佐藤直方が、堯舜の受禅と湯武の放伐を説いて、前者は晴天の花見で後者は雨降りの花見、天気が良ければ雪駄懐手で花を見るが、雨が降れば蓑笠足駄を着けて見るように、「身ごしらえは遇所に循ってのこと、花見にかわりはない。甲冑着て天下を有(たも)つも、衣裳を垂れて天下を有つも、遇う処の違いまでで、同じことじゃ」と述べ、両者を同一扱いしたことについて「佐藤氏などがかようにうろたえ申さるべきとは思いがけもないことにて候。・・・とかくこれは佐藤氏の老耄と存じ候」と述べられています。これは、佐藤氏の『湯武論』において「孔子の武王をなぜ「未だ善を尽くさず」と仰せられたぞと云えば、そこそこに訳のあることぞ。湯武は雨ふりに花見に行かれたと云うものぞ。武王がそでないことをせられたならば、あたまで不善と云うものぞ。・・・ちょうど湯部は雨降りに合羽傘で花見に行かれたぞ。なんぼいやでも、雨降るときは雨装束せねばならぬ。雨天の花見ゆえ未だ善を尽くさずと仰せられたぞ。」と述べてあるのを指しているものと思われます。強斎先生は上述の話を三宅儀兵衛こと尚斎の話として引いています。「放伐をもっともというその人は何につけても心もとなし」などという狂歌も載せられております。
人によっては常道と権道を区別し、湯武放伐を非常の措置として肯定する向きもありますが、強斎先生は「権ということをひたと云いたがり、時勢の勝手に用いたがるは、皆大根に一物くさい物があるゆえにて候。どこもまでも臣としては君に手向いはせぬと云切にて候。」と言い切っています。もっともその後で「放伐のみならず堯舜の受禅とても、どこにすいたところが候や」と述べておりますので、強斎先生は湯武放伐のみならず、堯舜禅譲も同じく君臣の道に反するものとして否定したことがわかります。しかしその後では、「天命に順い人心に応じて、ああ無ければならぬ苦りきった時節に生まれ合わせられた、笑止千万(気の毒)な不幸な湯武にて候」と述べ、さらに湯武は「聖人たる處に疑いもこれ無く候」と述べているのをみると、強斎先生の湯武観は、罪を憎んで人を憎まずということでしょうか。その点で「日本にも、上古には桀紂にも劣らぬ様な悪王も有る様なれども、湯武なき故、今日万国に冠たる、君臣の義の乱れぬ美称がこれ有り候」と述べているのは、上記のように湯武を完全には否定し切れない強斎先生にして少し不可解ではあります。放伐はともかく、禅譲も権道として禁忌する強斎先生の立場は、闇斎先生を継ぐものでありますが、それについても上述した佐藤氏は『湯武論』において、「神道者が堯舜の禅受を正流がつぶれるとて色々のことを云うは目くら論と云うものぞ」と述べ、「嘉(闇斎)先生の湯武論は決して程朱の意に非ず」とまで述べております。さらに直方は、上述した堯舜と湯武のみならず、湯武とこれに反対して首陽山で餓死した伯夷の違いについても、「伯夷はいつも天気はよいと定め、武王はまた雨降りもあるものと雨具の用意をせられた程のことぞ。武王伯夷其の迹大いに異なるに似で其の帰着の処は一致なり」と述べ、両者の間に本質的な差異を認めておりません。