『靖献遺言』を読む6顔真卿

 

 顔真卿、字は清臣は、我が国では能書家として有名である。彼は唐代玄宗の治世で平原太守を務めていたとき安禄山の謀反に遭遇した。河北の諸郡が次々と禄山になびくなか、真卿は賊軍討伐の義兵を起こし勇敢に闘った。

顔真卿の従兄であり常山大夫の顔杲卿(こうけい)も真卿と同様臣節を守り禄山と闘ったが、後には禄山に捕えられた。そのとき杲卿は、禄山に向かい唐の朝恩と禄山の不忠を責め立てたため、鉤で舌を引き切って殺された。両者何れも唐朝が再興する柱石の役割を果たした。

安禄山の乱後、真卿は朝廷に復帰して御史大夫に任官した。御史大夫は官吏の邪悪を糾察弾劾する目付役である。直言を憚らぬ真卿の態度によって百官は粛然として秩序を回復したが、同時にそれは同僚たちの忌むところとなったため、真卿は幾度となく讒言誣告による左遷貶斥の憂き目に合った。

そしてついに徳宗の治世に盧杞という人物が大臣になると、彼はますます真卿の剛直を憎み、徳宗に勧めて汝州で謀反を起こした節度使、李希烈の宣慰に真卿を派遣せしめた。周囲は真卿の身辺を按じ、彼の汝州行を引き留めたが、彼は君命に逆らうわけにはいかないといってそのまま出発した。汝州に着くと、希烈は真卿を脅して降伏させようとしたが、逆に真卿は希烈の不義を責め全く臆さなかったため、ついには彼を希烈の本拠地である蔡州に移し、人を遣わせて彼を殺させた。享年76歳。蔡州への移送に際し、真卿が自らの死を悟って記した遺言が『移蔡帖』である。

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