新東亜論―米国の普遍主義を排す(2009)8

8.アメリカ以後の世界、それはナショナリズムによる多極的な共存時代の幕開けです。

それではポスト・アメリカの世界はどうなるでしょうか。またあるいは、どうあるべきでしょうか。これを次に述べたいと思います。今後アメリカの覇権が上述したように、政治と経済、文化のあらゆる面で後退していけば、それによって世界は一挙に多極化し、地域や国家を基礎単位とする新しい世界秩序が幕開けすることになるでしょう。こうした事態は、ポジティブな側面とネガティブな側面の両方を含意しているでしょう。ポジティブな面に関していえば、リベラル・デモクラシーを促進するアメリカの普遍化圧力が緩和されることで、多様な文化的特殊性を有する世界の諸民族が自決し、それぞれの利害を代表する国家の独立と共存が模索されるようになるだろうということです。

くれぐれも誤解なきよう付言しておきたいのですが、ここで私はなにも、民主主義や市場経済というものをそれ自体として否定しているのではありません。民主主義自体を否定すればそれは専制主義になってしまいますし、市場経済を否定すれば共産主義になってしまうでしょう。歴史は何れも人類に幸福をもたらさないことを立証していると思います。私が申し上げたいのは、民主主義や市場経済はそれ自体抽象的な概念に過ぎないのであって、その具体的な意味内容を規定するのは、地域や国家を構成する民族の文化的信念に他ならないということです。したがって、民族の伝統文化の多様性に応じて、リベラル・デモクラシーも同様に多様な発現形態を表示するでしょう。民主主義と宗教道徳が表裏一体なのはこの故であり、政教分離や個人主義を語って両者を離間しようとするのは、所詮アメリカ的ないしは西欧的な民主主義が「文明」であり、非西欧世界の民主主義は「野蛮」であると決め付ける思い上がったオリエンタリズムの発想に過ぎません。アメリカの犯した最大の誤算は、まさに自分たちの依拠する民主主義がそのまま世界の民主主義の理想であると勘違いしたことにあったのです(前の言い方をすれば「アメリカナイゼーション」を「グローバリゼーション」と取り違えたのです)。

 もっとも、リベラル・デモクラシーが、近代を通してここまで普遍的な文明としての通用力をもったのは、それが政治と道徳、国家と宗教を分離することで、歴史的コンテキストに埋め込まれた文化的制約を超越しえたからであるともいえましょう。しかし、目下我々が認識せねばならないのは、自然と理念を分離する近代的な二元論の限界であり、人類の終末論的ユートピアを唱える形而上学の終焉です。

 

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