上述した奥村氏の「手記」は、『木戸幸一日記(下)』や英国王への「親書」などとの整合性から、当日の「天皇・マッカーサー会見の内容を最も正確に記録したものではないかと」と筆者は指摘しており、1975年11月号の『文芸春秋』に作家の児島襄によって公表された。しかしその「手記」では、天皇のご発言として「コノ戦争ニツイテハ、自分トシテハ極力之ヲ避ケ度イ考デアリマシタガ、戦争トナル結果ヲ見マシタコトハ、自分ノ最モ遺憾トスル所デアリマス」とあるのみで、いわゆる「全責任発言」は見られない。ただ、この点に関して1949年7月の第八回天皇・マッカーサー会見からリッジウェイの離日会見まで通訳を務めた松井明氏の記録(以下松井文書)では、「天皇が一切の戦争責任を一身に負われる旨の発言は、通訳に当たられた奥村氏に依れば余りの重大さを考慮し記録から削除したが、マ元帥が滔々と戦争哲学を語った直後に述べられたとのことである」と記されている。
ところで第一回会見に先立ち、天皇は『ニューヨーク・タイズム』紙記者のクルックホーンを謁見し、予め提出された質問に対する「回答正文」を与えられた。この謁見は、当時昭和天皇の戦争責任、なかんずく真珠湾の奇襲攻撃を非難する海外世論に対する弁明として、米国大統領と米国民に宛てたメッセージに代替する重要な意味を持つものであった。その際、四項目あった質問の内、第二の「宣戦の詔書が、アメリカの参戦をもたらした真珠湾への攻撃を開始するために東条(英機)大将が使用した如くに使用される、とういうのは陛下の御意思でありましたか」との問いに対して「宣戦の詔書を、東条大将が使用した如くに使用する意図はなかった」との回答がなされたが、後に「ヒロヒト、インタビューで奇襲の責任を東条におしつける」という見出しが付されたクルックホーンの記事が各紙に掲載されかかると、内務省は「天皇がいかなる人物も個人的に非難しない、ということが慣例である・・・・・・天皇はそのような非難を超越しているのである」との理由でそれらの発行を差し止めた。
さらに、会見から四か月を経た1946年1月29日付で天皇が英国王に宛てた「親書」では、「私は当時の首相東条大将に対し、英国での楽しかった日々を想い起こしつつ、強い遺憾と不本意の気持ちをもって余儀なく(署名)するのだと繰り返しのべながら、断腸の思いで宣戦の詔書に署名したのであります」との記述が見出される。
かくして、これらの資料と経緯をもとに、筆者は、第一回会見で松井文書が指摘するように奥村氏の「手記」から削除された部分があるとすれば、それはマッカーサー回想記にあるような「全責任発言」ではなく、むしろそれとは逆に「東条非難」のご発言ではなかったか、またその背景には天皇の側近たちによる「悪くなったら皆東条が悪いのだ。すべての責任を東条にしょっかぶせるがよいと思うのだ」(東久邇宮)という考えがあったのではないかという推測を下すのである。