本著は、全羅北道の高敞における小地主の家系で、後に京城紡績を主とする財閥を築いた金一族を題材に、大日本帝国よる朝鮮統治が彼の地における近代資本主義の発展に対して果たした役割を検証するものだ。まず本著は、朝鮮経済の近代化に関して流布した二つの神話を覆す。第一に、資本蓄積の「萌芽」が李朝にあり、日本統治はその成長を抑圧妨害したとする説(萌芽説)。文中を引用すれば「朝鮮の資本主義の萌芽は17世紀に生まれたが、十分に成長する前に外国の圧力にさらされた。そのため日本の経済的進出に耐えきれず、1910年の日韓併合による植民地化によって、資本家の成長は1945年まで大きく抑制されたというもの」(27)。第二に、仮に萌芽説が否定され、日本統治下の朝鮮で資本主義が発達したとしても、それは「買弁資本」の対抗概念である「民族資本」に主導されたとする説、である。
まず第一の萌芽説を、筆者は朝鮮が「植民地あったにもかかわらず工業が著しい発展を遂げた」として斥ける。その際、そうした発展の担い手となったのは、高敞の金一族を筆頭に、地主や両班などの伝統的なエリート層であった。彼らは小作人を搾取して米穀を生産し、それを日本を主とする新興市場に輸出することで資本を形成した。しかし第一次大戦の終結によって米価と地価が下落したことを契機に、それまで資本を蓄積した商人、地主は繊維をはじめとする近代産業への本格参入を開始した。そこで誕生した産業資本家の代表格が高敞の金一族というわけである。時あたかも朝鮮総督府は19年の3・1独立運動を境に、それまでの「武断政治」を「文化政治」に転換、同時に朝鮮の資本家階級を懐柔して日鮮協調による工業開発を推進しつつあった。またそうした植民地政策の転換と、朝鮮の工業化は「アジア大陸への経済進出という日本帝国主義のビジョンと密接につながっていた」(74)。
1930年代に入り、日本の満州及び華北への侵攻が活発化すると、朝鮮は軍需物資の生産を担う「前進兵站基地」として位置づけられ、重化学工業化が飛躍的に進展した。その結果、筆者によれば、朝鮮の製品生産量に占める工業製品の割合は、1910年(併合年)の時点で3.3%に過ぎなかったが、29年には12%、40年には約22%、工業以外の他の鉱工業部門も合わせると40%近くにも達している。さらに全工業生産の内訳では重化学工業が半分を占めていた。このように「四○年に及ぶ日本支配が、第二次大戦後の南北朝鮮にその後の産業発展につながる堅固な基盤を残したことは確か」(81)であり、前述した第一の萌芽説は打ち消される。
そこで出てくるのが第二の「民族資本」神話だ。しかしこれについても、筆者の見解によれば「総督府は産業政策というかたちで、経済開発の基本的な方向と優先事項を決定した。そして植民地の金融システムを支配することで、その政策を民間部門で徹底的に推進した」(167)のであり、「民族資本」の嚆矢と目される金一族の京城紡績(京紡)も、初代社長に親日政治家で有名な朴泳孝を迎え、政府系の朝鮮銀行や朝鮮殖産銀行による寛大な融資や総督府が支給する補助金に頼らなければ存続することはできなかったのである。さらに朝鮮を「前進兵站基地」とする産業開発は、「日満経済ブロック」の建設と相即しており、本国(日本)資本との競合を避ける必要からも、朝鮮の産業資本は製造面(原料・技術)と販売面の両方の市場を日本の進出先である満州や華北に依存するようになった。39年には、京紡の子会社である南満州紡績会社(南満紡績)が発足している。39年には、朝鮮の輸出総額の内、満州への輸出が76%占めるに至っている。このように、朝鮮資本主義の発展パターンは、「国家による圧倒的な経済支配」と、「日本の資本主義に対する従属」という顕著な特徴がみられた(330)。独立した「民族資本」はフィクションであった。
余談だが、上述した朝鮮経済の発展パターンは、基本的に朴正熙大統領の開発政策にそのまま踏襲されたようだ。すなわち、いわゆる「漢江の奇跡」は、国交正常化に続く日本からの投資を梃子に、国家(政府)が資本(産業)を統制することで引き起こされたものだ。感慨無量である。