『高度国防国家戦略』⑩

○文化的な「正当性根拠」を欠いた世俗国家は、過激な聖戦主義の温床となる。
さらにもう一つ、中露専制国家が我が国と協調できない理由は、それらが多民族国家であること関係している。これは先述した経済的理由とは別の文化的理由だ。彼らのなかでも特にこの問題が深刻なのは中国だろう。端的に言うと、最早冷戦終結以降の共産党政府には、13億超の人口を数える国民と、55の文化を持った民族を統治する「正当性根拠」が存在しないのである。「共産主義」というこれまた普遍的なイデオロギーの空洞化に苦しむ中国は、アメリカと同じ様な「Who are we?」という自己規定の問いに直面している。そこで彼らは「中華民族」という架空のネーションを創出してアイデンティティーの中心を埋めようとしているが、このような欺瞞に満ちた擬装イデオロギーが当面の民族問題を解決するとは到底考えられない。
文化的正当性なき国家は、リバイアサンにならざるを得ない。政府と人民の間に文化的基盤に発する「信頼」がないから前者が力で支配しなければ後者が服従しないのである。中国の歴代政府が今も昔も独裁政治から抜け出せない理由の一つがここにあるだろう。もとより我々は、共産党の軍靴に父祖の故地を蹂躙された中国の少数民族に満腔の同情を禁じえないが、それは彼らの置かれた悲惨な境遇が、帝国化した中共に対峙する我々にとって決して他人事ではないからでもある。「正当性根拠」を持たぬ共産党政府にとって、目下唯一の頼みの綱は、年率二桁に迫る経済成長率である。要するにカネで人民を買っているのだ。無論これはアメリカの好況を背景とする好調な輸出拡大に支えられていたものだが、これから世界が不況に突入していくなかで、中共政府が座して死を待つであろう筈がない。彼らは自らの支配が生んだ文化的・社会的矛盾を糊塗するための帝国主義的な国権伸張に乗り出すであろう。そして更にそのときには、彼らが最近考案したあの「中華民族」というイデオロギーは、自己の対外侵略を正当化する格好の大義名分となるだろう。何故ならば、「中華民族」には自然的実体がないため、何処までもその境界を拡張することが可能だからである。
先にアメリカの例で見たように、普遍国家はいつも「文明」の名に於ける世界化の誘惑に晒されている。しかしそれは外部から見れば単なる帝国主義の発動でしかない。こうしたことから我々は、中国が、文化的正当性を欠き、国民をカネで買収する共産党の支配下に置かれている限りは、決して日中の間で民族相互の尊敬と信義に基づいた友好関係が樹立されることはないということを肝に銘じなければならないのである。

○「資本主義の文化的矛盾」をいかに超えるか。
ここで一旦議論を元に戻そう。我々が当面している問題は、中露専制国家の駸然たる台頭によって国家安全保障を危局に晒すか、それともアメリカ文明の技術主義、拝金主義によって民族の文化を売り渡すかというジレンマに存した。しかしとはいっても、アメリカの「構造改革」要求を突っぱねて、旧態依然の「日本株式会社」にしがみ付けばよいというものでもない。というのも、予てよりアメリカが我が国に要素市場の自由化を要求してきた背景には、アメリカの偏狭な国益追求という目的よりももっと根本的な次元で、「産業主義の限界」とそれによる「資本主義の文化的矛盾」という近代文明の慢性的閉塞構造が横たわっていたからである。これはどういうことか。
昨今世界を覆いつつある金融不況は、アメリカの金融バブル崩壊に端を発するものだ。だから今次の不況の責任をアメリカの不道徳な「カジノ資本主義」に帰し、「金融経済」に対する「実体経済」の優位を叫ぶ声が諸所の産業主義国から挙がったのも無理はない。しかし実際のところ、昨日までにみられた世界経済の成長は、アメリカの膨れ上がった金融バブルと、それによる消費需要の拡大に支えられていたのだから、世界もまたアメリカの「カジノ資本主義」に便乗していたのである。金融バブルの直接的な引き金となったのは、小ブッシュ政権下に於ける拡張財政政策とグリーンスパンの量的緩和政策であるが、そもそもアメリカの金融市場がここまで巨大化した史的背景には、80年代以降における新自由主義的な金融経済のグローバル化があったことは前述の通りだ。ではアメリカが、それまでの「産業主導型成長」を断念して「金融主導型成長」に転じた理由は何であったか。ここには、単にアメリカの輸出競争力低下といった理由を超えた、文明論的意義が含まれていた。すなわち、それは近代社会を支えてきた「産業主義文明」の限界という問題である。
アメリカを中心とする70年代の世界経済は、それまでの「大量生産・大量消費」によって無限に富を拡大していく産業資本主義の限界を経験していた。モノに対する消費者の需要は飽和し、慢性的な生産過剰が経済を蔽っていたのである。窮したアメリカは、カネをモノとではなくカネ自体と交換する金融市場を創造し、そこに行き場を失っていた資本が流れ込んで巨大な資産需要を作り出したのである。また金融市場が生み出す資産バブルは、消費需要を喚起し、実体経済の成長を牽引した。
ところで、資本主義が拡大成長を続けるためには、人々の欲望を解放し利潤を無限に追求していかねばならない。当初、市場に於ける交換は消費者が持つ自然の「必要(needs)」を満たす目的で行われたが、やがてそれが達成されると、企業は商品の持つ象徴性(消費する者の社会的地位や価値を表徴する)に訴え、「欲望(wants)」を喚起することで消費需要の拡張を維持した。しかしそれは人間の経済と道徳に調和をもたらす文化的規範の破壊を意味したことから、此処に最早市場経済は文化を破壊しなければ自己の発展を維持することが出来ないという、ダニエル・ベルの言うような「資本主義の文化的矛盾」を来たすに至ったのである。先に述べた金融経済の拡大は、こうした事態に拍車を掛けるだろう。それは金融市場が、資本の投機的な利潤を目的とした投資家たちの「相互模倣性」を特徴とするために、勤労といった「道徳的価値」や、モノに固有の「使用価値」といった本源的価値よりも、貨幣(カネ)的な「交換価値」といった外面的評価に支配されるからである。この結果、「文化」のハードコアを喪失した近代「文明」としての資本主義には、「ニヒリズム(無なるもの)」が胚胎することになるが、それは前述したように、近代文明の存在自体を死に至らしめる癌になるだろう。

カテゴリー: 高度国防国家戦略 パーマリンク