『高度国防国家戦略』⑨

○「歴史の終わり」は必然か?リベラルの誤算
ここでいうリベラルの所信は至って単純であり、それは「民主国家同士は戦争をしない」というマイケル・ドイルの有名な法則を支持した上で、専制国家の経済自由化は政治的民主化を必然的に帰結するから、遅かれ早かれ目下の経済相互依存を深めた国際システムは平和協調に向けて収束するというものである(詳しくはロバート・ケーガンの戦略理論に関する別の論文「ロバート・ケーガンの戦略理論とそれに対する駁論」を参照のこと)。
まず市場経済の導入は、国家の体制内部で中産階級を成立させ、彼らは政府の権力乱用を防止して自己の既得財産権を保持する重大な関心を有するから、ゆくゆくは体制民主化を推進する有力な政治母体となる。その際、経済成長によって富裕化した国民は、充分な教育機会に恵まれ、政府に対する監視能力を高めるだろう。国内政治の民主化は、国際政治の雪解けと軌を一にしている。なぜならば、国家の民主化は、「戦争の経済コスト」を引き上げ、諸国が平和に対して抱く愛着を強めるからである。昨今取り沙汰されている環境・資源問題のような所謂「グローバル・イシュー」の存在も、対立から協調への誘因を各国に与えるだろう。
以上のような根拠を挙げて、リベラルは中露専制国家への「封じ込め」ではなく、「関与」を主張するが、それは市場経済を導入した中露が民主化し、それによって環太平洋の国際秩序が、大国間のバランスオブパワーを超越して普遍的な法の支配に服すると信じているからである。しかしこの予定調和的な見通しが真実なら、なぜ中露はこの経済不況の最中にも拘わらず、不可欠の経済相手国であるアメリカとの関係が悪化する危険を冒してまで、大規模な軍拡を断行しているのだろうか。

○資本は強力な国家を必要とする。
例えば、中国が市場経済を取り入れたことによって、既得権を有する中産階級が新興しているのは事実である。しかし彼らが祖国の民主化を歓迎するかといえば、それは的外れであろう。というのも、彼ら大陸沿岸部の中産階級は、内陸農村部の低所得階級と比較すれば、人口全体の一部を占めるに過ぎない少数派だからである。よって体制民主化の暁には、数に勝る農村が都市を圧倒し、ブルジョアジーは従来の政治的特権を剥奪されるだろう。実際的に、中国の都市住民は体制民主化を怖れ、自己の政治的庇護者(パトロン)となるべき独裁政権の存続を望んでいるのだ。
グローバルな市場経済の浸透に反して国家がより強固になるのは、「近代文明」としての資本主義が帰結する諸所の社会・文化的矛盾を克服できるものが国家を措いて他にないからである。市場経済の外で我々の存在を支える環境や共同体、伝統、こうした社会的安定性の基盤を、資本主義は利潤・効率化原則の下に商品化し、流動化の波で呑み込ませる。それは一国の内外で自己喪失や貧困といった問題を蔓延らせるが、これを究極的に解決可能な実効的アクターは国家だけなのである。同様の事実は国際関係にも敷衍されるだろう。グローバルな経済相互依存は資本家の政治的影響力を拡大し、「戦争の経済コスト」を高めるから、各国は平和への愛着を強めるという見方は、グローバル化という現象の暗部を黙殺している。グローバル化は一方で、民族間の文化的衝突や経済的摩擦を先鋭化させ、それを解決する暴力装置として国家を強く前面に押し出すのだから。
なるほど確かに世界的な景気の上昇局面に於いて、各国はリベラルな協調体制を維持することに共通の利益を見出すかもしれない。そこでは一国の内部で「資本と労働の合意」が成立し、「国際通貨の安定性と国内政策の自立性のトレードオフ」によって生じる緊張がある程度緩和されるだろう。しかし一度景気が後退局面に突入して失業が増加すると、世界はナショナリズムによって引き裂かれ、「持てる者」と「持たざる者」の相克が苛烈化する。そうしたとき、嘗てリカードの「比較生産費説」などを引き合いに出して「自己調整的市場」の優位を宣伝していた人間は、今更ながら、経済が国家の強固な政治的基盤を抜きにしては存立しえないことを痛感し後悔するのである。

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