○孤高な自由の燈台か、尊大な自由の十字軍か。
ところで、建国来、近代文明の申し子であるアメリカの外交政策は、ウィルソン的な理想主義外交の原則に固執した結果、行き過ぎた干渉主義と孤立主義の両極を揺れ動いてきた。あるときは自由の旗手を自任する十字軍となり、またあるときは野蛮な旧世界と一線を画する孤高な自由の燈台になったのである。彼らはキッシンジャーが慨嘆したように、バランスオブパワーの計算をいつも毛嫌いしてきたために、地政学的合理性を失し、国際政治を危地に陥れることしばしばであった。彼らは決まって国際政治に自然法の理念を持ち出し、民主主義と集団安保が威嚇や駆け引きに代わる新たな外交の指導原理になると信じている。その結果、相手国の善意を一方的に信頼し、敵が自分を出し抜き、事態が緊迫していくのを徒に放置するのである。しかし時局が破綻し平和が一空に帰すや、今度は一転、自分の善意が裏切られたことへの怨念から復讐の鬼となり、完膚なきまでに敵を叩く。結局はいつもそのつけを自分一人で払うことになるのだが。アメリカ外交が抱えるこのイデオロギー的二面性を、ジョージ・ケナンは「民主外交」の弊害として次のように描写している。
民主主義というものは平和を愛する。それは戦争に訴えることを好まない。それは挑発されても余り早く反応しない。だが、ひとたび戦争しなければならないほどにまで挑発されてしまうと、そのような事態を引き起こしたことについて、相手を容易に許そうとはしないのである。つまり挑発したこと自体が問題とされるに至るのである。民主主義は憤怒に狂って戦う・・・。(ケナン「アメリカ外交50年」)
或いは別の言い方をすれば、アメリカはリアルポリティークの戦略的配慮を欠落していたために、国際平和に対する政治的な責任を怠ってきたのである。例えば、大国化する独ソの接近に対して、アメリカが早期の段階で適切なオフショア・バランシングを講じていたならば、二度目の欧州大戦は防げていたであろう。また中国大陸の赤化を心底阻止するつもりがあるのなら、道義的な理由だけで日本を廃滅の淵に追い遣るような仕打ちは出来なかったはずだ。
○自由の十字軍から孤高な自由の燈台へ
遺憾なのは、この世界国家アメリカの無責任なイデオロギー外交が、今度は東亜の政局に新たな紛争の火種を蒔き散らしていることだ。アメリカの極東政策は、伝統的に「分割(分断)統治(devide and rule)」を旨とした「ハブ・アンドスポーク」を基調とし、それは「封じ込め(containment)」と「関与(engagement)」という相反する二本の戦略的支柱から成ってきた。前者がバイラテラルな軍事レジーム(これは古典的攻守同盟ではなく非対称な宗属同盟である)によって敵対国家を抑止牽制するのが目的なのに対して、後者はマルチラテラルな経済レジームに相手国を組み込み、リベラルな国際秩序を構築するのを目的としている。そしてこの「封じ込め」と「関与」という対極的戦略こそ、それぞれ自由の十字軍と燈台に対応するアメリカの政策的表現に他ならない。
今世紀初頭、冷戦勝利の余勢を駆るアメリカは、自由の十字軍としての自信を深め、国際合意なき武力行使をも厭わぬ体制民主化への意思を露わにしだした。そこで、「軍事力崇拝」、「単独主義(ユニラテラリズム)」、「体制変革(レジームチェンジ)」を特徴とした「ネオコン(新保守)」が政権を掌握すると、彼らは益々専制国家への態度を硬化させ、殊に中露の「封じ込め」を目的とした日米安保の抑止力強化に動いた。ところが、911事件を契機にアメリカが「中東の民主化」に忙殺されるようになると、次第に極東問題は棚上げされ、終には敗戦と金融恐慌の勃発を以って、アメリカは自由の燈台に退却したのである。通常バランスオブパワーの原則に依れば、アメリカは英国の大陸政策に倣ったオフショア・バランシングを展開せねばならない。しかし、上述したように、そうした戦略的中庸策が採れぬ彼らは、羹(あつもの)に懲りて膾を吹くの体で、徒に極東情勢へのコミットを放棄するばかりか、形だけの「関与」にしがみ付いて日本をいつまでも「ひ弱な花」に留め置こうとする余り、東亜の政局悪化を深刻にしている。その際、民主党リベラルが「人権」や「環境」、「軍縮」といった戯言を弄する背景には「歴史の終焉」に対する彼らの浅薄な希望的観測があり、これが中露に対する「関与策を」通じた宥和路線の思想的根拠になっている。