○西欧文化が近代文明に飛躍したとき、その没落が始まった。
このように西欧キリスト教社会の歴史的コンテキストの中から出生した個人主義は、当初こそ「文化的な特殊性」の負荷を課されていたが、その「内面性の倫理」故に、世俗的な制約を超越し、延いては「文明的な普遍性」を帯びるようになった。個人的権利の伸長を目指した民主主義が、市場経済と同様に、世界化されうる「文明」と看做されたのはそのためである。しかし上述したように、民主主義は、その出生母胎である神を離れては存立することができないにもかかわらず、信仰を内面化し、自らその国家的保証を撤廃してしまったために、却って信仰の相対化を招き、西欧社会発展の原動力となった固有の「文化」を破壊してしまった。この近代文明の、いわば「意図せざる帰結」に苦しんでいるのはアメリカである。多様性と進取の精神に富んだアメリカの発展を下支えしたものは、アングロ・プロテスタントの文化的伝統であった。それこそが「自助努力」を重んじるアメリカのナショナル・アイデンティティーとなって、国民統合と多様性の擁護という相反する命題を両立したのである。しかし「個人主義」という理想は、普遍化するにつれて内容的な価値を喪失し、形骸化していく。結局、多文化世界のアメリカ化は、却ってアメリカを多文化世界化して複数の文化コミュニティーで分断し、S.ハンチントンのいう「Who are we?」という根本問題に彼らを直面させたのである。
○アメリカに文化を売るか、それとも中露に国家を売るか、この究極のジレンマ
以上の行論から了解される問題の構図を要約するとこうだ。アメリカ覇権の後退に対する中露専制国家の大国化は、東亜の地政学的状況を不安定化している。しかし戦後アメリカは幾度の浮沈隆替を経てきたのだから、今次も我々は彼らの復活に期待を寄せ、またそのためにこれまで通りの追従外交を踏襲することで日米安保を支柱とするアジア太平洋の自由主義秩序を志向していくべきか。否、さにあらず。何故ならば、無論中露の強大化は我々にとって深刻な脅威であるが、それはアメリカの復活とて同じことだからである。前述したようにアメリカは強くなると、直ぐに「民主主義」や「市場経済」といった「文明的価値」を周辺国に押し付ける。「民主主義」も「市場経済」もその存立基盤となるのは、国家の「歴史・文化的地層」なのであるが、「文明」は皮肉にも「文化相対主義」や、「社会的諸実体」である「生産要素の商品化」といった形でその社会的安定性の基盤を浸食し、自らを滅ぼしてしまうのである。
先の大戦で惨敗した我が国は、天皇国体を破壊され、「戦後民主主義」や「自由主義経済」という名の「文明」を課されたが、その「文明」がもたらす社会的流動化の圧力を、「日本株式会社」なる官民一途の文化的堤防によって食い止めた。ところが冷戦終盤に勢い付いたアメリカは、最早西側陣営の異端児である日本に譲歩する必要がなくなり、公然と金融を始めとする要素市場の自由化(「構造改革」)を要求しだした。この「構造改革」は「産業主導型成長」に依拠する我が国にとって有害無益だったが、それ以上に重要なのは、「構造改革」が「専門主義」に自閉する経済学者が想定する一経済改革に止まらず、戦後辛くも命脈を保った我が民族の共同体文化を破壊したことである。市民社会の安寧秩序を支える社会的・文化的基盤の崩壊、これがアメリカ復活の暁に訪れる日本の悲劇なのである。