『高度国防国家戦略』⑥

 ○アイデンティティーと配分的権利をめぐる党派抗争の激化

 「市民社会」は国家の道徳的コミットを排除するからといって、決して価値から自由になる訳ではない。むしろ「共通善」の否定は、市民社会をそれぞれの教義と財産を要求する無数の文化コミュニティーによって引き裂き、それらの間で苛烈な「神々の闘争」と「パイの分捕り合戦」を誘致する。何故、異なる文化は民主主義の中で共存することが出来ないのか。それはニーチェが民主主義に隠された「弱者のルサンチマン」と呼んだ権力意思に関わりがある。民主主義は全ての価値(「善の構想」)の平等な承認を標榜することから、いかにも公明正大で「普遍的」な理念に映る。しかし此処で看過すべからざるは、それも結局は、多様性への寛大さを売りにする一個の価値(「善の構想」)に他ならないという事実だ。「ヒューマニズム(人間中心主義)」という権力意思、これが寛大を装う「文明」の正体であり、それは元々、「文化」的な「特殊性」の範疇に属しながら、「価値中立」の「文明」に扮して「普遍的」な外観を装うことによって、異教徒を支配してきたのだ。我が国の場合、「戦後民主主義」は「文明」の名に於いて「国体」を永遠に封印する権力装置であった。
しかしながら、以上のように、「人間」が我々にとって自明の出発点ではないとするならば、「人権尊重」「暴力反対」「平和共存」という市民社会の謳い文句に一体何の道義的根拠があるというのか。いうまでもなく、市民社会は、国民の政治・経済的な権利に対して二つの制度的保証を想定している。すなわち、「議会の討論」と「市場の取引」だ。しかし最早「人間」の威信が失墜してしまえば、「議会の討論」は「多数者の専制」を、そして「市場の取引」は「資本家による搾取」を覆い隠す詐術であると喝破する反乱分子の「狂信と暴力」から、市民社会の安寧秩序を守ることなど出来ない。畢竟、「国体」なくして我々は、群雄割拠する下克上の乱世に転落すること必定なのである。

○民主主義は、神への信仰と一体不可分である。
さて、こうした民主主義のアポリアを免れるために、「国家」は「中立性」の看板を捨て、「社会」への干渉を決断せねばねらない。しかしそれは毫も国民の自由を禁圧するものではない。何故ならば、人間の自由とは、徒に既成の権威を破壊し、これから逃れ去ることによって成就するような「消極的自由」ではなく、却ってそうした既成の権威を不可抗のものとして受け入れた上で、その同一線上の卓越を目的とした「積極的自由」の内に存するからである。つまり神「からの自由」ではなく、神「への自由」、この主体的な信仰によって人間は、真個の自由を獲得するのだ。
そして正に、この神への主体的服従こそが、近代個人主義の起源なのである。西欧に燎原の火の如く燃え広がった宗教改革は、神(キリスト)とカエサル(国家)を分離することで、信仰を純粋に個人の内面に於いて回復するファンダメンタルな宗教復興であった。そこで初めて個人は「内面的孤立化」を経験し、「近代的自己」に覚醒したのである。したがって人間の自由は、神を一己の責任に於いて信仰する自由であり、同時にその複数性は、複数の神々に対する信仰ではなく、唯一無二の神を信仰する方法の複数性であるのに相違なかった。

 

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