『高度国防国家戦略』①

○風雲急を告げる東亜情勢
近年、パックス・アメリカーナ(アメリカによるグローバルな覇権)の衰退が著しい。それは一般に、世界覇権を構成する政治(軍事)・経済・文化(イデオロギー)の各面に於いて見受けられる。先のブッシュ政権が推進した「中東の民主化」政策は蹉跌を来たしたが、それはアメリカの軍事的限界を露呈するものであると同時に、西欧的な民主主義が世界化しうる普遍的理念ではないことを示唆するものであった。経済面では、戦火拡大につれて膨張した軍事費が、財政負担となって国際基軸通貨たるドルの信認を脅かし、国際金融センターたるアメリカの経済力を低下させつつある。こうした事態に拍車をかけるかのように、昨今アメリカを震源として世界経済に波及した金融不況は、アメリカ文明の寵児ともいえる資本主義の前途に暗い影を投げかけている。
アメリカの衰退は、他方で我が国を含む極東の国際情勢に深刻な危機を醸成しつつある。というのも、アメリカのプレゼンスの相対的低下は、日米安保を基軸とする極東の勢力均衡を覆し、それによって生じた政治空白を埋めようとする誘惑に、我が国と一衣帯水を隔てた大陸の専制国家を駆り立てているからである。巧みな資源外交とプーチン独裁によって劇的復活を遂げたロシア、改革開放で目覚しい成長を続ける中共、この二大国の駸然たる台頭は、昨今の経済危機で一旦鈍化したが、それは極東情勢の緊張緩和をもたらすどころか、却って「生存圏」をめぐる諸国の覇権闘争を激化させている。恰も我々は、パックス・ブリタニカの凋落が誘発した大戦前夜の欧州情勢を目撃しているかのようだ。

○パックス・アメリカーナの衰退は今回が最初ではない。
目下の状況は、ベトナム敗戦以降の70年代を彷彿せしめるものがある。第二次大戦後、東西冷戦の一極を担う大国に上り詰めた頃のアメリカは、覇権国の地位に相応しい意思と能力を持ち合わせていた。金の保有高は他のそれを圧倒し、大戦の戦禍を免れた国土には優れた産業があった。これらを経済的基盤とすることで、アメリカは世界中に兵力を展開し、国際共産主義の脅威を「封じ込め」る道義的任務に従事したのである。また豊かな国内市場は寛大にも開放され、それは戦後復興の過程にある同盟国に輸出の受け皿を提供することで、西側陣営の結束を一層強固ならしめた。勿論、彼らの正統教義となったのは、「民主主義・資本主義」を支柱とした自由主義イデオロギーである。資本主義は、人々の欲望を解放し、飽くなき資本蓄積を通じて社会の富を増進した。日進月歩の技術革新は日々の物質生活を便利で快適なものにし、無知や貧困が引き起こす戦争や謀略から、人類を調和と繁栄に祝福された近代文明の彼岸へと導くかに思われた。
ところが60年代後半を境に状況は暗転する。「民主主義」への妄信と「封じ込め」への過剰な責任感は、アメリカを、ベトナム戦争に至る際限のない道義的介入に突き動かし、それは莫大な政治的犠牲と経済的コストを社会に強いた。さらに日本を筆頭とする新興経済国は、優れた競争力によってアメリカの国内産業を浸食したため、国際収支は悪化の一途を辿った。こうしてアメリカの宿弊ともいえる「双子の赤字」が慢性化した結果、ドルの信認は失墜し、パックス・アメリカーナの下部構造は動揺を来たしたのである。問題は特に、思想面に於いて顕著であったが、それは近代文明が環境破壊や帝国主義戦争と云った諸所の自己矛盾を露呈し、人々の信仰を幻滅に変えたことに起因していた。就中ベトナム戦争はその骨頂と看做され、これに折から一世を風靡したポストモダン思潮(それはあらゆる価値を相対化し、人々から既存の文化的信念を奪い取った)や世界的な反戦運動の広がりが相俟って、「進歩主義」や「技術崇拝」、「個人主義」と云ったアメリカ文明の正統教義が徹底的に批判された。こうして西側世界の盟主たるアメリカは深刻な文化的断絶によって引き裂かれ、社会には怠惰放恣、軽佻浮薄な頽廃ムードが蔓延するに至ったのである。

カテゴリー: 高度国防国家戦略 パーマリンク