国体問題研究会設立趣意(平成二十二年)

 国体問題研究会設立趣意(平成二十二年)

 

〈設立趣旨〉

昨今の我が国を囲繞する世界情勢は、まさしく複雑怪奇ともいうべき様相を呈し、これを拙速に把握せんとするの弊は厳に慎まねばなりませんが、それでも敢えて単純化して大局を申し述べますならば、いまや世界は近代文明の申し子たるアメリカの威権が失墜し、大国のナショナリズムが相拮抗する19世紀的な競争世界に回帰しつつあるということが出来ないでしょうか。

そうしたなかで、我々日本国民は、旧来のような無定見な欧米追従の傾向を排し、粛然と襟を正して国家の根基を見定めねばならないと思います。特に、いまだ記憶に新しい一連のアメリカ従属的な構造改革や、先般の小沢民主党による暴戻極まる政権運営を観るにつけ、その出生母胎たる国民世論の軽佻浮薄を嘆じざるを得ません。しかし、これも結局は、戦後の国家運営が枝葉末節の技術論に偏向し、民族存立の根本たる「国体」(国のなりたち)の問題から目を背けてきた当然の報いであると思います。

そこで、迷走する国民世論に一石を投じ、以って我々の「国体」に関する有為活発なる議論を喚起する目的から、この度有志の勉強会を旗揚げしたいと思います。

さしあたり、念頭にある主だった論点を列挙すること以下の通りです。

〈テーマ・論点〉

○国体を科学することの道義的可否

近代・西欧化の現実を直視し、目には目をとばかりに、近代化にはむしろ近代の合理的思考を以って国体の存在根拠を解明すべきとする発想があります。しかし「豊葦原の瑞穂の国は随神、言挙げせぬくに」という古語が端的に示唆するように、千古の国体は畏れかしこき不可侵の存在であり、そもそも我々卑賤の民草が一々賢しらを立てるべき対象として不適か、はたまたそうした合理的・分析的思考様式自体が、すでに旧習からの「脱呪術的解放」を目論む左翼的リベラルの思う壺なのかといった、議論の大本に関わる点を検討します。

○尊皇と愛国の間

ナショナリズムの主体である「ネーション(国民)」が、如何なる原理を中心として統合されているかは、各国によってまちまちです。かたやフランスのように、封建君主を人民が斬首し、啓蒙進歩的な共和政治の理念を以って愛国心の根拠とする国家が存する一方で、悠久の歴史経験や慣習に重きを置いた伝統主義に依拠する英国のような国家もあります。周知のように我が国は、万世一系の皇室を中心とした血統的結合の延長として国民が成立し、千古の歴史を閲するなかで固有の伝統文化を発達させてきましたが、戦後における左翼リベラル的な国家観の浸透は、目下国論を二分している外国人参政権の問題などと関連して、深刻な弊害を露呈しています。そこで我が国における「国民」概念の意味内容を検討し、こうした積年の思想的混乱に終止符を打つ必要があります。

○天皇機関説について

かつて、国家を一個の法人と擬制し、天皇をその一機関と看做す天皇機関説は、天皇それ自体を絶対の信仰目的と成し、君民の関係を、その純真素朴な家族的一体性において捉える対抗学説によって攻撃排除されました。確かに聖上の御稜威は不可侵であり、国民の信仰はそれ自体が目的でありますが、明治国家の近代化路線が、国民の価値観・生活様式を高度に大衆化し、それにつれて個人的価値の実現や資本主義が帰結する貧困や疎外の克服といった問題が国民的関心の中心を占めつつあった大戦間期の日本にあって、むしろ天皇の存在を、国民の福利の観点から合理的に基礎付け直す見方が膾炙したとしても不思議ではありません。また、近代資本主義の帰結とされた社会矛盾の間隙を衝き、左翼共産主義の合理主義的イデオロギーがいよいよ影響力を拡大していた当時の時代状況も正当に斟酌すべきであると思います。

そこで今日の文脈において、上述した機関説が注目される所以もまた同様に、近代という時代の延長に位置する現在の国民を内包する説得手段としては、これを素朴な直情的訴えに依るのみならず、さらに世俗合理的な論拠を以ってするのも同等に効果的であると思うからです。よって、そこでは国体の中心にまします天皇への崇拝と臣従が、我々国民個人の一般生活にとって如何なる意義を有するかについて、客観的な考察がなされるでありましょう。

○天皇と国家(天皇の国家性)について

先般、小沢一郎氏が天皇陛下を「政治利用」したとして批判され、この問題から敷衍して天皇と国家のしかるべき関係について若干の議論がありました。現行憲法下の象徴天皇は、主権者たる「国民の総意」に基づく存在とされ、一切の政治的権能を有さないとされていますが、同じく天皇が「国民統合の象徴」とされ、光彩陸離たる権威もて国民に君臨遊ばされる存在である以上は、それが全く政治権力と無縁の存在とは到底言いうるはずがなく、両者のしかるべき(規範的な)関係を如何に把捉するかが問題になります。そこである論者などは、皇位の神聖が俗塵に塗れることを懼れ、「京都遷幸」による天皇と国家の全き分離を主張するなどしていますが、例えばこれによって生じる危険がある、時の権力の「正当性問題」など、吟味すべき課題は多々あろうかと思います。

さて今上天皇は、上述したように、現行憲法で非政治的存在とされているだけではなく、「政教分離原則」によって、非宗教的な存在とされてもいます。しかし皇室と神道は一体であり、また神道による宮中祭祀が国民の安寧幸福と密接不可分の公的性格を有するからには、このような宮中祭祀を国民から遮断して、私事化するのは問題があります。往年における靖国神社の国家護持運動の経緯も含めて、国家と公共宗教の規範的関係を模索したいと思います。

さらに、憲法に先駆けて存在する「国体」を、いかなる国家形態しての「政体」によって制度化するかという議論も避けられません。無論、「国体」は万古不易ですが、それを保障する装置たる「政体」は、時代の流行に応じて柔軟に変更すべきです。

○天皇の神学について

大変困難な課題でありますが、先にも触れたように皇室は、国家宗教たる神道と渾然一体です。しかしそこで想起される神の概念は、セミ的な諸宗教に於ける一神教的なそれではなく、むしろ八百万の神から連想される多神教的なそれであると言われることがあります。しかし明治国家体制におけるように、古来の神道を体制教学として国家化する政治的必要も加味するならば、神道の教義もまた不易と流行の区別を図りながら、その時代の特殊事情に対応して柔軟に変化すべきものと言えます。この点について議論します。

○責任論について

先の大東亜戦争をめぐる責任論は、依然その主体や罪を負う対象に関して諸説紛々とし、我が国の前途に立ちはだかる大きな障害物と化しております。戦後のいわゆる左翼的な進歩史観のなかで、君主主権の明治憲法体制は丸山真男の言葉を借りれば「無責任の体系」の如く扱われてきた感があります。しかしそれでは現在の「国民主権」が国家国民の繁栄にとって責任ある体系かといえば、それも甚だ心許ない感じがします。

一国の戦争責任を、当事者の子孫であるわが国民がいかに認識するかという問題は、我々が現在の日本をいかなるアイデンティティーによって自己定義しているのかという問題と密接に関係しており、これは延いては戦前に我が国が進出した大陸諸国との信頼構築にも関わる重要な問題であると思います。よって、こうした対外戦略的な観点からも、先の戦争責任に関して明確な見解を打ち出す必要があるのではないでしょうか。

○国体の歴史的位置づけについて

戦前のいわゆる日本主義論争に於いて、その一翼を担った講座派が、明治維新を不徹底なブルジョア市民革命であると断じ、その封建残滓的な性格を厳しく批判したことは有名な話です。マルクス的な階級闘争史観の中では、明治維新の改革も、より高次な社会主義的発展に向けた一通過点に過ぎず、皇室の存在も社会経済的な下部構造を反映した歴史的構築物としての「制度」と考えられたのです。しかし明治維新の実態は、未知なる未来への進歩というよりも、むしろ神武建国の根本を志向した原点回帰と称すべきであり、またそうした認識に立ってこそはじめて、天皇国体の万古不易は約束されうるのだと思います。

戦後のGHQ改革に際して、マルクス主義の洗礼を受けた所謂「ニューディーラー」は、天皇主権の明治国家体制をフランス革命前夜のアンシャン・レジームと同視し、これが彼らの薬籠中にある「自由と民主主義」とは氷炭相容れざる存在であると看做したため、ラディカルな国体改造を主張しました。これに対して明治国家体制における「憲政の常道」に一定の民主的意義を認め、この逸脱変種として戦前の「超国家主義」を捉える向きもあります。なかにはライシャワーのように日本の歴史を好意的に解釈して、西欧市民社会との共通点を見出そうとする史観までありますが、果たして祭政一致の日本国体と欧米の国体にどこまでの親和性があるかは甚だ疑問です。この辺の消息について研究を深めようと思います。

最後に、宮沢俊義の815革命説のような学説がありますが、明治憲法から現行憲法への移行をどのように捉えるかが大きな問題となります。憲法によって国体は温存しえたか、それとも破綻したか鋭意検討します。

○国体の自由論

政治思想的な考察を加えます。それは人間の存在にとって自由や平等といった価値がいかなる意義と目的を有し、またそのために天皇国体がいかなる意味を持っているのか考えるわけです。巷間では、国体イコール全体主義、自由イコール幸福のような対抗図式が流布しているかに見えますが、これが理論的または実際的な真実といえるか検証する必要があります。また自由を政治的自由としてみるか、経済的自由としてみるかの違いも肝心ですが、かりに後者の場合、国体が本当に人間個人の経済利益と対立するものなのかといった点は決して自明ではありません。議論の余地があると考えます。

○国体と国家の社会経済システムとの相即性について

 前に言及したように、国家の「国体」と「政体」は区別して検討されるべき対象であり、両者が親和的な場合は相互に補完的な役割を果たしますが、逆に相反する場合は、相互に毀損し合うおそれがあると思います。例えば、現行憲法が明記する個人優位の「政体」は、共同体に重きを置く「国体」を毀損するのみならず、本来の制度趣旨を歪曲して形骸化するに至りますが、対蹠的に戦後の「日本型経済システム」のように外形的制度が民族精神と上手く合致する場合は、経済システムが民族の美徳を保護促進するのと同時に、その美徳が一国社会の経済パフォーマンスを高めるに至ります。

 そこで考えますに、先般の小泉首相による構造改革は、既成の経済システムに大幅な変更を加えましたが、この結果出現した現在の社会経済システムは、我が国の国体に徴してどれほどの相即親和性を有するものでしょうか。或いは別言すれば、我が国の国体と相即した理想の社会経済システムを、我々はどのように設計構想するべきでしょうか。この問題について議論を致す必要があります。

○国体と国家の安全保障システムの相即性について

安全保障の目的をいかに見定めるかが肝心の問題であると思います。我々は外国の脅威から何を守るのか、そしてその手段を何に求めるのかという基本線についてすら、国民の間でコンセンサスは得られていません。例えば仮に国家安全保障の目的が、国民個人の生命財産を守ることにあるとするならば、一旦緩急に際して生命の危険を犯して戦うよりは、むしろ家財道具もろとも一族郎党群をなして政治亡命する方が合理的な選択と言えないでしょうか。こう考えれば、国防の目的は個人身体の安全というよりも国民精神の独立にあると考えるべきです。その際、現在の日米安保体制は、そうした国体護持の目的に照らして適合的な政策ということができるでしょうか。日米安保が「自由と民主主義」というイデオロギーに基づく条約となっていることから問題となります。

 

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