若林強斎について④神道大意

「八百万の神の下座に連なり、君上を護り奉る」

「八百万の神の下座に連なり、君上を護り奉る」

強斎が父に懺悔したのにはもう一つ別の理由があります。というのも、彼には北川氏から迎えた妻との間に一男四女がありましたが、男子は生後百日にして夭折し、本来であれば養子を迎えるべきところ、二父に仕えるを功利の所業として養子を忌む崎門の慣習から、結局養子を入れなかったため、若林家は血筋が絶えました。強斎の筆になり、近江の西依家に伝わる『譲証文』には、「島津若林共に血脈絶候我等心底可被察候(我等の心底を察せらるべく候)せめて、その名字なりともけかし失わぬ様に頼事に候」とあります(前掲『若林強斎の研究』)。島津氏は強斎の叔母が嫁いだ親戚です。ここにも、忠孝の道を説きながら、忠のために孝を尽し得なかった彼の深い苦悩と悲哀が伺えるのであります。

ところで、強斎が師の絅斎を超克し、闇斎の垂加神道を大成する上での思想的転機となったのは、享保九年(1724年)頃、彼が門人の山口春水を介して、闇斎の弟子である山本主馬に邂逅し、垂加神道の諸書を書写して、その奥義を伝授されたことにあるといわれます。これは、ちょうどそのころから翌享保十年にかけて、彼が近江高宮の多賀霊社に詣でて、同社に「垂加霊社」を勧請していること、来訪した主馬より闇斎の『風水草』の字を採って「守中」の霊号を授けられていること、などの事実とも符合します。また強斎が、山口春水から聞いた楠公の言葉(「仮りにも君を怨み奉るの心発らば、天照大神の名をば唱ふべし」)に感動し、自らの書斎を「望楠軒」と名付けたのも同じころであります。

こうした契機による思想的転回の結果は、彼が同年、すなわち享保十年に多賀霊社で行った『神道大意』の講義に結実しており、それは同時に強斎晩年の思想的境地を表わすものでもあります。以下に一説を引用致しましょう。

志ヲ立ルモ、此形ハ気ノツヾクホドツヾイテクチハツルコトジヤガ、ソレハ形アルモノハ始ガアレバ終ガアルハヅハ知レタコト。アノ天神ヨリ下サレタ面々ノコノミタマハ、死生存亡ノヘダテハナイユヘ、コノ大事ノモノヲ、即今忠孝ノ身トナシテ君父ニソムキ奉ラヌ様ニ其身ナリニドコマデモ八百万神ノ下座ニツラナリ、君上ヲ護リ奉リ、国土ヲ鎮ムル神霊トナル様ニ、ト云ヨリ外、志ハナイゾ。ジヤニヨツテ、死生ノ間ニトンジヤクハナイ。ドコマデモ此天神ヨリタマハ ル幸魂・奇魂ヲモチクヅサヌ様ニ、ケガシキヅツケヌ様ニスルヨリナイ(『神道大系』近藤啓吾先生校注「垂加神道(下)」より引用、全文はこちらを参照)

思うにポイントは二つ、すなわち第一に、我々の心は天から賜った神の分霊であり、第二に、それは死して後、生命の根源である天照大神に回帰し、八百万神の下座に連なり、さらにはまた形あるものとして生まれ変わるというサイクルを通じて、祖孫を一貫して永久に絶えざるものであるという自覚であります。これはまさに闇斎が説き、絅斎が終に解し得なかった「心神」の思想と相通ずるものです。

(崎門学研究会)

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