若林強斎と望楠軒
Q:「何時の世に致しても、たとえば甲斐の武田信玄のごとくに、諸国の大名面々になりて、人倫乱れ、君も無き如くにまかりなりそうろう場にて、有志の国主処し様如何致しそうろうが、義に合い申すべくそうろうか」。
A:「このとき、王室衰弱、諸侯強盛にして、天下に君なきがごとしといえども、しかも皇統綿延として絶えざれば、則ち君臣の義、上下の分は、初めより強弱盛衰を以て変ずべからず。天下は王の天下なり。万姓は王の臣民なり」云々。
これは師の浅見絅斎から崎門の正統を継いだ若林強斎とその門下である梅津大蔵が書簡で交わした問答であり、梅津の質問に対する強斎の回答である。時は正徳5年(1715年)、徳川幕府の全盛期であり、世の中の誰もが武家の支配を不思議に思わなかった時代の話である。それからおよそ百五十年後、「君臣の義」を説き「天下は王の天下なり」と喝破した強斎の理想は、彼の思想を受け継いだ門人たちによって現実のものとなった。先の号で紹介した勤皇志士の領袖、梅田雲濱(1815~1859)も強斎の思想の流れを汲む一人である。
若林強斎は延宝7年(1679年)、京都の医家に生まれた。元来、若林家は近江(滋賀県)の出身であるが、強斎は京都で生まれ育ち、元禄15年、彼が25歳の時に、絅斎の学塾に入門した。以来、彼の学問はいよいよ進み、絅斎門下のなかでも次第に頭角を現していったが、父が病に倒れたのをさかいに境遇が暗転する。この病によって父は失明し、医者を廃業したため、一家は経済的に困窮を来たしたのみならず、強斎は病床の父を近江の実家で看病することになったため、学問の継続が困難になった。しかしそれでも強斎の向学心はごうも揺るがず、二日に一遍、父の看病を終えた未明に近江を出発し、大津街道を夜通し歩き通して朝の講義に出席していた。その凄まじさは、夏には羽織袴を刀の先にくくり付け、襦袢一枚で通い、同門の人間には「もし大津街道で行き倒れの者があったら、必ずそれは自分のことであると思ってくれ」と冗談を言うほどであった。
そんな強斎に対して、峻厳をもって知られる師の絅斎は、少しも手加減をしなかったが、秘かに彼の屈強を喜んでいた。「強斎」というのは彼の号で、名は「進居」というが、何れも絅斎が与えたものである。進居の進は「進徳」で仁、居は居業で知、これを成し遂げるにはどうしても勇が要るということで「強」の字を号に付したのであるという。かくしてしだいに彼は、師や同門から人物、見識ともに一目置かれる存在へと成長していく。
その後、絅斎が正徳元年に亡くなると、彼の学堂は荒廃し、門下は一旦の離散を余儀なくされた。そこで今一度、崎門の学堂を再興し門下を結集すべく、強斎は京都御所の真南に一棟を買って自らの学塾を開き、後にそれを「望楠軒」と命名した。この学塾の名は、強斎がその門人である山口春水から楠木正成の言葉に「かりそめにも君を怨み奉るの心起こらば、天照大神の名をば唱ふべし」というのがあるのを聞いて深く感動したのに由来する。さても、この望楠軒において、強斎は「君臣の義」、「王の天下」を説き、多くの弟子を養成した。冒頭の梅津大蔵もその一人である。
(崎門学研究会)