『靖献遺言』を読む4諸葛亮

さてここからが問題である。孔明の没後、その爵位を継いだ孔明の子諸葛瞻(セン)は、蜀を破った魏の将軍鄧艾(トウガイ)が諸葛の父祖の地を餌に誘惑してきたのを拒絶し、鄧艾の使者を斬って潔く陣中に戦死した。さらに瞻の長子である尚もまた、父子ともに国の重恩を蒙った身の上を感慨し、敵陣に攻め入って戦死したのである。このことを絅齊は講説で「忠義の家風伝わりて三代まで討死せり。日本で楠正成・正行・正儀が如し」といって称賛している。ところがこれと対照的に、劉備の後帝である劉禅は、鄧艾が成都に入るや璽綬を奉じて艾のもとに投降してしまった。これを慨嘆した皇子の諶(シン)などは劉備の廟に哭し妻子を殺してから自殺したという。

絅齊の門下であり、したがって崎門の学統に連なる若林強齊は、これらの顛末を評して「劉禅のこの様に腰の抜けた大臆病の仕方で漢家四百年の辱をかいたが、北地王()の仕方で、又高祖以来四百年の光を表すぞ」と説いたうえで、さらに我が国で「後醍醐天皇に従って高氏に降するもあり、皇子を(新田)義貞に附して北国に遣わされたとき、高氏が天皇の勅じゃというて高氏に従えと偽の詔書を書いて軍兵にみせたれば、瓜生判官その他大義を知らぬ武士ども、皆高氏に降した。忠義を知りた者は皆義貞に従いて宮方へ参りた。・・・何ほど天皇でも高氏と和をなされ、その上降参せよと仰せらるれば、天下全体の賊を討つという大義を忘れたというもの。すれが勅でからが従う筈はない」と述べている。

 何がいいたいのかというと、山崎闇齊以下の崎門学の特徴は易姓革命を廃し「君は君たらずとも臣は臣たらざるべからず」という節度にあった。これは承詔必謹の考えにつながる。しかし失徳の天子ないしは暗君(後醍醐帝がどうかは別として)が下した詔勅はどうなるのか。国体の尊厳を損なう詔勅も絶対ということになるのか。この辺の消息が今後の研究課題である。

 

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