『靖献遺言』を読む8文天祥

文天祥、字は宗瑞、南宋の忠臣である。彼は吉州の出身であり、弱冠二十歳にして科挙に首席で及第した。徳祐帝(恭宗)の時代に、贛州(こうしゅう)の知事を務めていたが、元軍が長江を越えて来寇し、天下に勤王の詔勅が発せられるや、いまこそ国恩に報いる秋と決心し、家財を全て売り払い、軍勢を率いて都がある臨安(現在の南京)に赴いた。

かくして天祥が臨安に到着したとき、宋の各地は次々と元軍に占領され敵に降参する者が後を絶たなかった。そこで天祥はあくまで徹底抗戦を主張したが、右丞相(宰相)の陳宜中は却って太皇太后に進言して使者を派遣し、国璽を捧呈して元軍に降伏を申し入れさせた。これに対し敵将伯顔(バヤン)は、陳宜中が直接来るよう求めたが、彼はすでに遁れ去っていたため、急遽天祥が使者として元軍に赴いた。伯顔は天祥が降参を申し入れに来ると思っていたので、彼が元に対して不屈の態度を示し、大臣職の提案も言下に拒絶するのを見て怒り、そのまま身柄を拘束して元の都がある大都に北送した。さらに伯顔は臨安に入城し、徳祐帝と太皇太后、皇太后の身柄を受け取ると自らも北に去って行った。

さて、天祥は北送の途中の鎮江で運よく脱走に成功したため、福州において帝位に就いていた益王昰(し、端宗)の下に参じて宋国回天の指揮を託せられた。彼は天下の豪傑を糾合して勇敢に戦い、端宗が崩じた後は衛王ヘイ(日の下に丙)を新帝(祥興帝)に戴いて戦ったが、最早劣勢を挽回し難く、敵の急襲に遭ってまたも捕らえられた。その後、厓山の戦いで宋は敗れ滅亡した(1279)

 敵将、張弘範は天祥を引見し宰相の地位と引き換えに降参することを勧めたが、天祥は頑として聞き入れずただ死を請うばかりであったため、取りあえず彼を大都に護送した。大都では元の大臣博羅(ボロ)が天祥を引見した。その際、博羅は天祥が自分に拝跪しないことに怒り、先に天祥が太皇太后の使者として元に降伏を申し入れながら、北送の途中の鎮江で脱走した態度の矛盾を責めた。すると天祥は、自分が逃げたのは己の利のために国を売らなかった証拠だといって反論し、さらに博羅が、徳祐帝がいるにもかかわらず、前述した二王を推戴擁立したのは不忠だと言って責めると、非常時に於いては君主個人の問題よりも社稷(国家)の存続の方が大事だ(「社稷を重しとし、君を軽しとす」)、また二王は宋室の正統だから簒奪にはならないと反論した。

終に博羅は反駁することが出来ず、天祥を殺そうとしたが元主忽必烈(フビライ)がこれを許さなかったため、天祥は牢獄に幽閉されることになった。世に有名な『正気の歌』(http://ja.wikisource.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%B0%97%E3%81%AE%E6%AD%8C)は、そのとき天祥が獄中で詠んだものであり、彼は入獄から四年の後、刑死した(1282)。享年47歳。本文において天祥の遺言として掲げられた『衣帯の中の賛』は、彼の衣帯の中に書き記されていたものである。

 

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