『国体文化』令和4年5月号に拙稿が掲載されました。先の浦安市まちづくり基本条例について書きました。ご高覧下されば幸いです。
去る令和四年三月十一日、私が市議を務める浦安市において「まちづくり基本条例」が制定された。この条例は、いわゆる自治基本条例のことである。自治基本条例は一般的に、まちづくりの基本原則や市民参加の方法などを規定する条例であり、「自治体の憲法」とも称される。平成十三年の北海道ニセコ町を皮切りに、全国四百近くの自治体で制定されているが、一部の自治体がこの条例に基づいた住民投票の投票資格者に外国人を含めたことから、事実上の外国人参政権に道を開くものであるとして問題視された。こうしたこともあり、同条例は旧民主党政権下の平成二十二年をピークに下火になり、令和2年にはわずか一件の制定に留まった。しかしその一件である武蔵市は、昨年同条例に基づいた住民投票条例案において、住民投票資格者に日本国民と同じ条件(18歳以上で3か月以上在住)で全ての外国人を含めたことから全国的な問題となり、金子先生が市民の先頭に立たれた広汎な反対運動の結果、僅差で否決されるも今も予断を許さぬ状況が続いている。
こうしたなか、今度は私の地元である浦安市において自治基本条例が制定されることになったことから危機感を募らせ、金子先生が主宰された武蔵市の市民集会にも参加すると共に自身のSNS上でも警鐘を鳴らしてきた。とはいえ、浦安市の条例案を一見すると、武蔵市における住民投票条項のような具体的な規定は何もなく、いかにも無味乾燥とした内容であるため、当局や大勢順応派の市議たちは、浦安の条例は武蔵市とは無関係である、外国人参政権とは関係がないと反論している。私も最初はそう思っていたが、調べるうちに外見は違っても自治基本条例としての本質に変わりはないとの結論に至った。そこで、11日の議案採決に至るまでの間、短い期間ではあったが反対運動に努め、そのなかで金子先生とオンライン対談もさせて頂いた。市民からは、浦安ご在住で筆者も日ごろからご指導を頂いている高池勝彦弁護士が「浦安市まちづくり基本条例について考える会」の代表として運動された。
そして採決に当たり、私は反対討論を行い他の議員の説得に努めたが、結果は、反対は私一人のみであり、議長を除く他の十八名は全員賛成して条例は可決成立した。結果は残念な事になったが、本条例案についてはメディアで報じられたこともあり市の内外から大きな反響があった。当局や賛成派の議員にも相当電話やメールがいったそうである。私にも全国から多くの賛同や激励の声を頂いた。この場を借りて重ねて謝意を申し上げる。
私は反対討論において、本条例案に反対する理由として①条例の必要性が判らないこと②全く市民主体の条例になっていないこと③制定に至るまでのプロセスが極めて拙速であること④外国人参政権につながりかねない危険性を孕んでいること⑤本条例案の根幹をなす原理として当局がたびたび引き合いに出している「補完性原理」の問題、の五つを挙げた。かなりの長文になってしまったので目安の時間を大幅に超過し議長に制止される一幕もあったが、手短に話せるような内容ではないので最後まで断行した。以下に全文を掲げる。
反対討論全文
それでは議案第十六号、「浦安市まちづくり基本条例(案)」に対する反対討論を行います。以下に私が本条例案に反対する理由を述べます。
まず第一に、条例の必要性が判らないことです。市は、本条例の「制定背景・目的」として、本市の高齢化に伴い「市税が減収する一方、社会保障関連経費が増大し、様々な地域課題の解決を行政が一手に引き受け、解決することはこれまで以上に困難になる」とし、そのことを理由に、市民の「多様な主体が担い手となってまちづくりを進めていくことができるよう・・・まちづくりの基本原則やルールを明らかにする必要がある」と説明しています。しかし、この説明では、市の人口構造の変化による財政悪化を理由に、本来行政が担うべき責任を市民に転嫁しているようにも聞こえます。市民は日々忙しく働き、公共サービスの対価である納税義務を果たしています。したがって、市政運営の一義的な責任は行政や議会にあります。市民にとって市政への参加は義務ではなくて権利です。財政逼迫を理由に市民に参加を求める前に、先ずは市が長期的な先を見据えた人口戦略や公有財産の戦略的活用によって税収を確保する政策を打つと共に、徹底的な行財政改革を断行する事によってまちの持続的発展を図る努力を尽くすべきではないでしょうか。その様な努力を尽くさずして、人口構造の変化や財政の逼迫傾向をあたかも所与の前提とし、だからこれ以上行政は面倒を見切れないので市民の皆さんも頑張ってまちづくりに参加して下さいと言うのは筋違いではないでしょうか。本条例案で(まちづくりの基本的な考え方)を規定した第4条2項には「市民はまちづくりを進めるに当たり、自らできることは自ら、自分たちでできることは自分たちで考えて実践します」とあります。また(市民の役割)を規定した第7条では「市民は、まちづくりの主体であることを認識し、参加するよう努めるものとします」とあり、さらに第2項で「市民は、まちづくりへの参加に当たっては、互いの立場及び考えを尊重すると共に、自らの発言及び行動に責任を持たなければなりません。」とあります。行政側が出してきた素案であるにも関わらず、上から目線で市民に対して自助努力を促し、努力義務や倫理規範を課すかのような表現に強い違和感を覚えます。これは私だけの感想ではなく、同様の意見が、本条例に関して市が実施したパブリックコメントにおいても複数寄せられています。
また市は、条例の制定が必要なもう一つの理由として、本市の「情報公開条例」や「個人情報保護条例」「市民参加推進条例」など、既存の条例の関係性や位置づけが不明確であるため、まちづくり全般に関する基本的な考え方や基本原則を明らかにすることで、それらの個々の条例を有機的に結び付ける必要がある。また、総合計画を個別の実施計画に対する最上位計画として条例で位置づける必要がある等と説明しています。しかし、上述した本市の情報公開条例などの既存の条例は、それぞれの条例においてその意義や位置づけが明確に規定されております。またそれらの条例を有機的に結びつけるとは言っても、本条例案を見ると「情報公開」や「個人情報保護」、「市民参加」といった言葉を羅列的に条文化しているだけであり内実はありません。また、総合計画を最上位計画と位置付けるのであれば、個別の策定条例で明記すれば済む話であり、わざわざその為に自治基本条例を制定する必要を認めません。以上の理由からも、本条例を制定する必要性がわかりません。
第二に、本条例が全く市民主体の条例になっていないことです。上述した様に、本条例は、市民の多様な主体を担い手とするまちづくりを目的とし、条例案第7条では、市民がまちづくりの主体であることを明記し、さらには第7章で市民の「参加と連携協力」を謳っています。しかしこの条例やその制定プロセス自体が、市民が主体とはとても言い難い行政主導にして上意下達式のものになってしまっています。
通常、自治基本条例は、一般公募により開かれた協議体を条例に基づいた付属機関として設置し、多くの市民や団体などのアクターがまさに「参加と連携協力」によって合意を形成する中で初めて有効に機能します。しかし本市は、条例制定に際して市民会議と条例懇話会を設置したものの、条例懇話会は条例に基づく付属機関ではなく、要綱のみによる私的諮問機関の位置づけに過ぎず、市民会議に至っては要綱すらも定めない単なる意見聴取の場としての位置づけしかありませんでした。また会議のメンバーも、市民会議は一般公募ではなく当局が無作為に抽出したとする3,000人の市民のなから申し込みのあった103人の市民で構成され、しかもその内、すべてオンラインで5回だけ開催された市民会議に参加したのは、1回目は基調講演、2回目で80人、3回目で66人、4回目で55人、5回目で52人と、回を経るごとに減っていっており、参加者が最も多かった2回目の80人で計算しても、17万人の市人口に占める割合は僅かに約0.047%に過ぎません。つまり99.9%以上の市民が議論にすら参加していないのです。これのどこが市民の多様な主体を担い手とする「参加と連携協力」のまちづくりなのでしょうか。事実、私の周りでも、まちづくり基本条例の内容はおろか、その名前すら知らない市民が大半であり、このような状況で市民参加を促す条例を制定することは矛盾も甚だしいと言わざるを得ません。
第三に、制定に至るまでのプロセスが極めて拙速であることです。たしかに、自治基本条例の制定は、内田市長の1期目の選挙公約であり、内田市長が市議であられた頃から一般質問などで必要性を訴えておられたことも承知しております。しかし、内田市政の1期目の間、同条例に関してほとんど表立った動きはなかったにも関わらず、任期満了の直前である昨年1月に突如として市民会議が立ち上がり、市長選挙の直前の1月29日に第一回目の会議が開かれたことはいささか奇異の感が否めませんでした。しかも、内田市長が再選を果たされて以降も、前述したように市民会議は全てオンラインで5回しか開催されず、条例懇話会は昨年8月に初めて開催されて以降、4回しか開催されていません。また市民との直接対話によるタウンミーティングや条例の趣旨に関する当局から議員や市民への説明会なども一回も開かれておりません。こうしたなかで、市民会議の発足から僅か一年にも満たない昨年末に、当局から本条例の素案が示され本定例会に議案として上程されています。
これに対し、例えば同じ県下で自治基本条例を制定した流山市は、平成17年9月から平成21年3月まで約3年半もの歳月を費やし、「パブリック・インボルブメント」という対話集会方式を用いて、本市のような無作為抽出ではなく、公募市民による市民協議会を主体として、自治会や議員、NPO、商工会議所、高校生やPTA等の様々なアクターと延べ124回もの対話を重ね、約7,000件もの意見を集約する中で広汎な合意を形成し同条例を制定しています。この違いは一体どこから来るのでしょうか。
もちろん、コロナ禍で市民との直接的な対話の機会は制約されていますが、だとするならばコロナを理由に性急に制定するのではなく、一旦コロナが収束するのを待ち、しかるのちに条例の必要性に関する検討も含めて十分な議論を尽くすべきです。先日の総務常任委員会質疑において、市は本条例の趣旨について市民に対する説明が十分でなかったことを反省していると述べました。そして今後、条例の趣旨を周知するシンポジウムの開催やリーフレットの配布を行うと述べましたが、その様な事は条例を制定した後ではなく、前に行うことではないでしょうか。市が自ら説明が十分でなかったと認めるのであるならば、そのような状況で制定を強行するのではなく、一旦立ち止まって議論をやり直すべきではないでしょうか。プロセスがあまりにも拙速であり強引です。
第四に、本条例案は、外国人参政権につながりかねない危険性を孕んでいることです。昨年末、東京武蔵野市で上程された住民投票条例案が大きな物議を醸しました。同条例案は、18歳以上で3ヵ月以上武蔵野市に居住する全ての外国人に住民投票資格を付与する内容であったことから、これが事実上の外国人参政権に繋がるとして広範な反対運動を巻き起こしました。周知の様に、現行憲法では第十五条において参政権は国民固有の権利と規定しており、外国人参政権は明確な憲法違反であり重大な主権侵害です。武蔵野市の住民投票条例案は、僅差で否決されたものの、今後も予断を許さない状況が続いております。このように大きな問題を引き起こした武蔵野市の住民投票条例案ですが、その法的根拠になったのが令和2年に同市で制定された自治基本条例でした。私は本市で「まちづくり基本条例」に名を変えて、いままさに制定されようとしている自治基本条例が、武蔵野市の轍を踏むことにならないかを大変危惧しております。
たしかに本条例案では、住民投票の規定は盛り込んでおりませんが、第17条では「市長は、社会経済情勢等の変化に対応するため、必要に応じて、この条例を見直すための措置を講じる。」と記されており、当局は条例懇話会において、住民投票については今後状況に応じて別途検討すると述べております。したがって、今後も現状のままであり続ける保証は何処にもありません。
また本条例は第6条において市民がまちづくりに「参加する権利」を明記し、第13条では「市及び議会は、まちづくりに関して、市民の参加する権利を保障するとともに、参加を促進し、支援します。」と記しています。したがって、今後「社会経済情勢等の変化」に応じて、市民参加の権利を具体的に保障する手段として住民投票が規定される場合、その根拠となるのは本条例に他ならず、同時に、本条例の制定プロセスにどのような「市民」が関与したのかが極めて重要になります。
その際、本条例案は「市民」の定義について、第3条で「市内に住所を有する者及び市内において働き、学び、又は活動する個人又は団体をいう」として、外国籍の住民や市内で活動する政治団体をも含む茫漠とした定義をしているだけでなく、前述した市民会議を構成するために市が無作為に抽出した3,000人の市民の中に、特別永住者はおろか、留学生や技能実習生等の中長期滞在者をも含めていたことは、本市の将来に重大な禍根を残すことになるでしょう。というのも、今後「社会経済情勢の変化」に応じて、仮に住民投票が検討されることになった場合に、その根拠となる本条例を制定するプロセスには、日本国民と同等に全ての外国人を参加させておきながら、住民投票の資格者からは除外することなど到底出来うるはずがないからです。市は本条例案に関して繰り返し、住民投票は想定していないし外国人参政権とは関係がないと強調していますが、為政者は変わっても条例は残ります。たとえ制定者に悪意はなくても、今後首長が変わったり、社会経済情勢が変化することによって、我が国に悪意を持つ内外の特定勢力に本条例が悪用され市政が左右される可能性は排除できません。したがって、その様な危険性を孕み、我が国の主権と独立にも関わる様な重大な条例を、市民の広汎な合意も得ずに拙速なプロセスで制定することなど絶対に許されません。
第五に、本条例案の根幹をなす原理として当局がたびたび引き合いに出している「補完性原理」の問題です。この補完性原理は、戦後を代表する左翼政治思想家である丸山真男氏の門下で法政大教授の松下圭一氏が提唱した考えであり、本市における条例懇話会の会長を務め第一回の市民会議において基調講演をされた関谷昇千葉大教授もまた松下氏の思想系統に属しておられます。しかしてその内容はというと、個人を政治社会の基本単位とし、個人で出来ないことは家族で、家族で出来ないことはコミュニティーで、コミュニティーで出来ないことは基礎自治体で、基礎自治体で出来ないことは広域自治体で、広域自治体で出来ないことは国家で、国家で出来ないことは世界政府で補完するという考え方です。しかしこの考え方は、一方で市場原理に基づいて国家が地方政府への補助を切り捨てたり、地方政府が公共サービスを提供する責任を放棄して自助社会を正当化する論理として悪用されかねない危険性を孕んでおります。本市が本条例案において、財政逼迫を理由に、市民にまちづくりへの参加の努力義務を課しているのも、こうした考えと無縁とは思われません。
さらに問題なのは、この「補完性の原理」は、国家よりも個人により身近な地方政府を優位に位置づけることから、国家主権を相対化・否定し、国家統治権に基づいた地方自治の原則を破壊する危険性を孕んでいることです。この「補完性原理」は、旧民主党政権の政策集であるインデックス2009に取り入れられ、民主党政権下において全国の地方自治体で続々と制定された自治基本条例の根底思想に据えられました。また「補完性原理」と同様に、自治基本条例の根底を成すとされる「複数信託論」は、市民主権の概念に基づき、地方政府の根拠を最高規範である憲法や地方自治法ではなく、無国籍市民の直接的信託に求める考えであることから、外国人参政権の理論的根拠ともされ、本条例案においても(市長の責務)を定めた第8条で「市長の地位」が憲法や地方自治法ではなく「市民からの負託による」と規定していることからもその影響は明らかです。
実はこのような、本条例案を含む自治基本条例の根底にある「補完性原理」や「複数信託論」といった特定のイデオロギーについては、学者の中でも憲法違反の疑いがある異端学説であるとの見解があるだけでなく、平成23年に自民党政調会が作成した「チョット待て!!自治基本条例」というパンフレットの中で「国家を否定し、憲法や地方自治法を逸脱した危険な考え方」であるとして警鐘が鳴らされています。これは自民党の公式見解です。自民党の市議の皆さん、大丈夫ですか?本条例案は住民投票の規定はなく外国人参政権とは関係ない、武蔵野市や他の自治体の自治基本条例とは性格が異なると安易に考えておられるかもしれませんが、根底にある思想は全く同じです。自治基本条例としての本質は何も変わらないのです。
最後に、昨今のロシアによるウクライナ侵攻を目撃し、改めて我々市民の平和と繁栄は、国家主権の独立と国民の統合によって初めて保障され得るという現実をまざまざと見せつけられました。しかしながら、このような状況下で、国家主権を解体し、国民を分断する危険なイデオロギーに基づいた条例を本市が制定しようとしていることに疑問と憤りを禁じえません。これまで縷々述べてきた問題点や危険性を孕む本条例案に関しては、市の内外から大きな反響と多くのご意見を頂いております。本条例案は、もはや本市の問題を超えて、全国の地方自治の将来を占う試金石になっており、全国の国民が我々市議会議員の一挙手一投足を固唾を呑んで見守っております。ですから最後のお願いです。本条例案に反対して下さい。宜しくお願い申し上げます。
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国家の構成原理=「国体」を見直さねばならない。
以上が反対討論である。一般に自治基本条例は外国人参政権の絡みで引き合いに出されることが多く、私も如上の反対討論でその問題について触れたが、実は現行憲法の判例では首長や議員、公務員の任免に関わる地方参政権については、平成7年判決の「傍論」において「我が国に在留する外国人のうちでも永住者等であってその居住する区域の地方公共団体と特段に緊密な関係を持つに至ったと認められるものについて、その意思を日常生活に密接な関連を有する地方公共団体の公共的事務の処理に反映させるべく、法律をもって、地方公共団体の長、その議会の議員等に対する選挙権を付与する措置を講ずることは、憲法上禁止されているものではないと解するのが相当である。」とし、「部分的許容」を示唆している。現在の通説ではこの「部分的許容説」は違憲とされているが、私は現行憲法が国家成立以前の自然状態における個人の平等な契約によって政府が樹立されたと仮想するジョン・ロック的な市民契約説に立脚する以上は、原理的には地方自治も、国家統治権の地方への移譲としての地方自治ではなく、自治基本条例の生みの親とされる松下圭一氏が唱えた市民自治論におけるように、地方政府といえども国籍を問わず市民として存在する個人の直接的信託によって樹立されたと思念するような学説を招来せざるを得ない。
したがって、根本的には、国家を基礎づける構成原理そのものを見直すことなくしては外国人参政権の問題は解決できないと思っている。戦前まではこの国家の構成原理は「国体」という言葉で表現された。また、仮に外国人参政権が違憲だとしても、ならば日本国籍を取得すれば良いのかといえばそう簡単な問題ではない。なぜなら、参政権が欲しいなら日本人になれば良いというなら、では「日本人とは何か」「日本国籍取得の要件は何か」という問題に移行するだけだからである。元来アメリカのような契約国家とは異なり、我が国の国籍法は血統原理に基づいている。とするのであれば、自民党政権がネオリベ政策の一環で事実上の移民を大量に受け入れ、リベラルが点火した外国人参政権問題の火に薪をくべるような愚行を続けているなかにあって、我々は日本人としての「国民統合の原理はなにか」という問題について再検討を余儀なくされている。そしてこの問題は取りも直さず、上述したような「国体」を考究する営みに他ならないのである。
最後に、私は今回の条例を巡る議論を通じて、外国思想の受け売りではない「日本的自治」の姿とは何なのかを考えていた。昨今の政治的無関心を見るにつけ、欧米の近代個人主義に基づいた現行憲法や地方自治の制度が有効に機能しているとはとても言い難い。それは詰まるところ、現在の制度が我が国の往古の国柄(国体)や伝統に根ざしたものではないからである。かといって我が国の歴史上に自治の伝統がないのかといえばそんなことはない。筆者はかねてより山崎闇斎が創始した崎門学や大アジア主義を勉強してきたが、例えば崎門学者の中沼了三の門下が幕末維新期の隠岐の島で尊皇自治政府を樹立した「隠岐騒動」や農本主義者として知られる権藤成卿が唱えた「社稷自治」など我が国にも自治の伝統は存在する。よって、それらの歴史的知見に拠りながら、現行の自治制度を受肉化していく営みが必要であろう。