日本国体学会の機関誌『国体文化』(令和3年9月号)に、先日の首相官邸前街宣に関する報告記事(「東京オリンピックに異議あり—首相官邸前で東京オリンピックに反対する緊急街宣を敢行」)が掲載されました。
大東塾・不二歌道会の機関誌『不二』(令和3年6月号)で真木和泉守の連載を開始しました。真木和泉守は明治維新における王政復古の立役者です。私が学んでいる崎門学の影響も受けております。ご一読下されば幸いです。
真木和泉守は文化十年(1813)、久留米水天宮神主真木施臣通称左門の長男として生まれた。幼名を湊と称した。
・文政六年(1823)、十一歳の時に父施臣が病没し家督を継いでからは名を保臣と改め紫灘と号した。
・天保三年(1832)、京都において神祇官領吉田氏より大宮司の状を受け、従五位下和泉守に叙任された。真木和泉守と称するのはこのためである。
・弘化元年(1844)、三十二歳の時水戸に遊学して会沢正志斉と会見し水戸学の影響を受ける。久留米に戻ると、久留米水戸学派である天保学派の領袖となる。
・弘化三年(1846)、藩主有馬頼長に『敢言草稿』等を上書して藩政改革意見を述べた。
・弘化四年(1847)、在京の友船曳巌の手引きで孝明天皇の即位式を拝観し、野宮定功等堂上公家の知遇を得る。この年から楠公祭の記録が見える。
・嘉永五年(1852)、久留米天保学派の同志が藩要路の人事刷新と藩政改革を図るも失敗し、「嘉永の獄」に連座する形で水田天満宮祀官であった弟大鳥居啓太の家に蟄居を命じられる。後に草庵「山梔窩」に移り文久二年二月まで十一カ年に亘って幽居する。その間、子弟に会沢正志斉の『新論』などを講義する傍ら、淵上郁太郎等の弟子を張耳飛目させて内外の情報収集に努める。『異聞漫録』はその記録である。
・安政五年(1858)には王政復古の経綸である『経緯愚説』を草して野宮定功への上書を試みると共に、倒幕挙兵の具体的計画である『大夢記』を草す。
万延元年(1860)三月、桜田門外の変が起こる。これを受けて討幕策である『密書草案』を草す。同年九月には初めて平野國臣が松村大成と共に山梔窩を訪れ形勢について和泉守と密談する。
・文久元年(1861)九月、尊皇攘夷論の根本を叙した『道辨』、子孫への教戒を記した遺書ともいうべき『何傷録』を草す。平野、清河八郎等の志士陸続来訪す。
同年十二月『義挙三策』を草し、討幕の具体策を述ぶ。
・文久二年(1862)二月、薩藩柴山愛次郎、橋口壮介来訪す。入薩を決意し水田を脱出する。鹿児島に着し有馬正義、田中謙介と会見する。慇懃に抑留される。
四月、大阪に着いたが同月二十三日の「伏見寺田屋の変」が起こり有馬等は殉死、和泉守は京都の薩藩邸に拘置される。後、大阪、久留米に護送されたが朝廷の沙汰により赦免される。
・文久三年(1863)、『上孝明天皇封事(孝明天皇に上る封事)』、『勢、断、労三条』を草す。反対党の力で死地に立ったが学習院における堂上や長藩、津和野藩主の働きかけにより囚を解かれる。六月、長州の桂小五郎と会見し『五事建策』を説明し、討幕親征の方針が決まる。大和行幸が決まるも「八月十八日の変」が起こり七卿に従って長州に下る。『興国新策』を毛利侯に呈す。
・元治元年(1864)三月、和泉守及び久坂玄瑞が総管する清側義軍の総員三田尻を発船する。七月、禁門の変に敗れ天王山に退く。久坂等戦死す。同月二十一日、和泉守以下十七士天王山頂にて自刃す。
・明治二十一(1888)年、靖国神社に合祀さる。
※小川常人『真木和泉守の研究』をもとに作成
〇今年三月は市長選挙。コロナ禍での強いリーダーシップが問われる
今年は3月に四年に一度の浦安市長選挙が行われます。現時点では、現職の内田市長の他に、松崎前市長も出馬を表明されています。松崎前市長は五期目の任期途中で突如県知事選挙に立候補されましたが、18年にも及ぶ長期政権のなかで東日本大震災での迅速果断な対応を評価する声がある一方、音楽ホールなどの様々な疑惑が残されたまま市政を去られたことについては、公職への復帰を目指される以上、市民に対して説明を尽くす必要があると思います。また一方の内田市長についても、過去四年間の成果が問われると共に、コロナ禍という未曽有の非常事態に立ち向かうリーダーとしての資質が厳しく問われることになります。
〇市長選挙の三大テーマとは?
そこで私は今回の市長選挙のテーマは以下の三つではないかと思っています。それは第一に、松崎前市政からの「継続と刷新」を掲げて出発した内田市政が、前市政の正の遺産を「継続」し、負の遺産を「刷新」できたかという点です。第二に、今般のコロナ禍という非常時に際して、内田市政が独自の検査体制の構築や中小企業や生活困窮者への支援など、市民に寄り添った迅速果断な対応が出来たかという点です。またコロナショックによる目下の財政危機に対して経費削減や公有財産の活用を含む大胆な行財政改革が断行出来たかという点です。そして第三に、基幹産業である観光業が打撃を受ける中、市の新たな付加価値を生み出す中長期的な発展戦略を打ち出せているかという点です。
〇内田市政は松崎前市政からの「継続と刷新」できたか。
第一の点に関しては、松崎前市政は人口が若い割に出生率が顕著に低い(1.12)本市の特性に鑑み、卵子凍結や市を挙げた婚活支援、少子化対策基金の創設などの少子化対策に力を入れたことは「継続」すべき取り組みでした。しかし、内田市長は就任当初の「事業総点検」で効果が薄いとして婚活支援を中止し、少子化対策基金も廃止したことは残念な「刷新」でした。(参考:少子化対策基金の廃止に反対する理由)一方で、松崎市長の下で副市長を務めた石井氏が内田市長になっても三年間現職に留まり続けたことは、内田市長が松崎前市長の負の遺産を「刷新」する上での大きな妨げになったと思います。
例えば、松崎市長が作った音楽ホールについては、土地の「等価交換」をめぐる不透明な経緯や、30年間で総額150億円という巨額の税金を費やす事業が松崎市長のトップダウンで推し進められたことについて未だに多くの市民が疑惑を抱いております。しかし内田市長が設置した「音楽ホール検証委員会」は、前市政当局の責任者である石井副市長を委員長に据え、他の委員も全員が市の職員から成る公正さを欠いた委員会であり、様々な疑惑に対して真摯な検討がなされぬままなし崩し的に事業の「継続」が決定されてしまいました。これに対し私は市議会で検証委員会に代わる「特別委員会」の設置を発議しましたが反対多数で否決されました。(参考:音楽ホール特別委員会設置発議及び採決結果(12.20))
同様に、私は市街地液状化対策についても、格子状工法が住民合意を得られず失敗したことを受けて、地下水工法に関する「高洲実験」の信憑性を検証し直すべきではないかと訴えましたが、松崎前市長の下で格子状工法での液状化対策を推し進めた張本人である石井副市長が在職であったこともあり、問題に蓋をする形で議論が終結してしまいました。(参考:12月20日一般質問・答弁要旨2市街地液状化対策について)このように、前市政からの「継続と刷新」に関しては疑問符が付きます。
〇「顔が見えない」市長
第二のコロナ対応についてですが、今般のコロナ禍においては、多くの市民が生活に困窮し、ディズニーや飲食店(屋形船を含む)を始めとする多くの市内企業が甚大なダメージを受けております。こうしたなかで、内田市長も経験したことのない異常事態のなかで試行錯誤を重ねられたこととは推察しますが、全体として「市長の顔が見えない」との声が多く聞かれました。対照的に県知事選に出馬表明されている熊谷千葉市長はSNSなどを活用して市民とのオープンな対話・議論を重視し、かといって市民に迎合することなく自らの考えを自らの言葉で市民に発信し続けています。こうしたことからもコロナで苦しむ市民に寄り添い市民の声に耳を傾ける姿勢の違いが浮き彫りになったと思います。(参考:浦安市長と千葉市長のコロナ対応比較)またそうした姿勢の違いは、熊谷市長がデジタルを駆使して市民との直接対話を重ねられていることについて、内田市長が議場で「暇人だから」と言い放ったことにも象徴的に表れていると思います。私も先日、コロナによる延期が決定したディズニーでの成人式について独自にアンケートを実施し、その結果を市の公式ツイッターにコメントしたところ、市の企画部長から電話があり削除を求められました。本来オープンなツールであるツイッターにコメントしただけで削除を求めるこの企画部長の傲慢な態度にこそ当局の閉鎖性とデジタル活用に対する認識の問題性が現れていると思います。
〇立ち遅れる感染対策―問題意識と危機感の欠如
感染対策については、国や県の検査体制が立ち遅れる中、PCR検査への補助など独自の対策を打ち出す基礎自治体が現れております。こうしたなかで内田市長も浦安市独自のPCRセンターを開設しましたが、週に2日のみ稼働で一週間の検査件数は僅かに5.3件であり、殆ど感染対策の意義を成さないまま昨年八月末を以て閉鎖されました。昨年の9月議会では当局は市内のPCR検査を含む検査が一週間で700件受験可能と答弁しましたが(参考:浦安市PCRなどの検査件数を700件に拡大)、その後第三波が到来し感染者が急増するなかで開かれた12月議会で実際の検査件数を質問したところ、市は正確な数字を把握していませんでした。
私は市議会において、現在のように医師の診察がなくても、少なくとも医療従事者や介護施設の職員、教育従事者といった人々の命を預かるエッセンシャルワーカーに対しては、PCR検査よりも「安くて速い」抗原検査なども活用しながら、無料で検査が受けられる体制の構築を強く要望して来ましたが、危機感と問題意識のない当局は聞く耳を持ちませんでした。感染対策に関しては、保健所を管轄する県や地元医師会、病院間での緊密な連携と情報共有が不可欠です。しかし残念ながら市の対応は県任せで危機感と主体性が欠落していると言わざるを得ません。
これに対し、松崎前市長は出馬会見で本市独自の保健所設置を公約に掲げられています。これは隣の市川市が中核市に移行し独自の保健所の設置を目指していることに対応したものです。中核都市に移行するには人口が20万人以上といった要件があり本市(17万人)は無理ですが、中核市でなくとも国との個別の協議によって独自の保健所設置が可能です。とはいえ浦安市より少ない人口で独自の保健所を持っているのは全国でも小樽市(11万人)のみであり、実現のハードルは決して低くありませんが、こうした前向きな方針を果断に打ち出せるのも松崎前市長の強みです。(参考:浦安市独自の保健所設置の可能性について)
〇コロナショックに対する飲食店支援も不十分
周知の様にコロナショックでは、ディズニーや市内ホテルが長期休業に追い込まれ、また屋形船や市内飲食店を始めとする市内企業は深刻なダメージを受けています。こうしたなかで内田市長は、市内中小企業への支援策として、主に①経営安定化資金(貸付)の拡充(貸付限度額1,500万→3,000万円に拡大、利子補給、2年間据置)②事業継続給付金(売上50%以上減少した企業に10万円給付、支給対象はR2.9月時点で600社6,000万円)③地域応援チケット(1人2,000円の商品券配布、支給対象は約17万人で3.4億円)等が実施されました。
しかし、経営安定化資金は所詮貸付であり利益が出なければ返済も行き詰まります。また給付の事業継続給付金も浦安市は10万ですが、隣の市川市では20万円、習志野や柏、鴨川でも20万円、我孫子や香取、成田などでは30万円、松戸や南房総では100万円と大きな差がありました。全国屈指の財政力を誇る割には給付額が少ないと思われた市民は多いのではないでしょうか。
さらに地域応援チケットも、利用内訳は大型店舗が56%、小型店舗は44%。業種は食糧・小売が82%、宿泊飲食16.1%、生活娯楽教育が1.8%と、大型小売店での使用に集中しているようです(令和2年9月議会時点)。こうした結果を見ると、コロナショックで最も大きなダメージを受けている飲食店への支援が十分に行き渡っていない現状があると思われます。
いうまでもなく本市はディズニーやホテル、屋形船などの観光業が基幹産業ですが、内田市長はこれまで本市の経済を支えてきた基幹産業への支援を十分に果たしてきたと言えるでしょうか。例えば、厳しい経営状況に直面するホテルに対して、熊谷市長率いる千葉市では、昨年4月からいち早く「ホテルでのテレワーク割引制度」を打ち出し、利用料金を3000円割引するなどの支援策を実施しました。千葉市のホテル客室総数が9,400なのに対して本市は11,000。市民のテレワーク需要も高まるなかで、むしろ県内最多のホテル客室を擁する本市こそ先陣を切ってホテル支援に乗り出すべきではなかったでしょうか。また飲食店への支援についても、今回のコロナ禍では「ダメな」自治体と「できる」自治体の落差が歴然と現れました。例えば、文京区、横浜市、平塚市、流山市、江東区などの自治体は昨年四月の段階から地元商店街やベンチャーと連携し、テイクアウト情報サイトや区民による宅配ボランティアなどの取り組みをいち早く実施しています。こうした行政によるイニシアティブが本市では感じ取れないのは大変残念なことです。(参考:コロナが晒した「ダメな自治体」「できる自治体」)
〇未曾有の財政危機に対し行財政改革を断行する決断力が求められる
ところで、今般のコロナショックの影響で、昨年の市税収入は法人市民税で20億円減少し、本年はこれに加えて昨年度の市民所得を基に算定される市税収入も10億円以上減少するとの予測が当局によって示されました。さらに市の貯金である財政調整基金の残高も市が健全財政を維持するために必要とした50億円を割り込む勢いで減少し、一般財源への繰り入れが困難になっていることから本年度の予算では財源が約60億円不足しているとの説明が当局からなされています。
こうしたなかで、内田市長は昨年、本年度当初予算編成方針を示され、経常的経費を全体で1割(約60億円)削減し、そのうち物件費と補助費をそれぞれ2割、総額50億円削減するとの方針を表明されました。問題はこの目標を単なる努力目標に終わらせることなく如何に実現するかです。目下における未曽有の財政危機を乗り越えるには、歳出削減の為の行財政改革を断行する市長の決断力と強いリーダシップが求められます。経常的経費の1割削減にしても、この目標を現実に達成するためには、物件費や補助費のみならず人件費(143億円)の見直しも含めた聖域なき議論が必要です。(参考:市政報告第十八号(令和2年10月号))
特に本市の職員給与は、「東洋経済オンライン」の実施した全国自治体職員平均年収ランキングで全国1位との報道もなされており(参考:浦安市職員の平均年収は全国トップ、765万円)、コロナ禍で一般市民が困窮し、市財政が悪化するなかで公務員だけ安泰というのでは到底市民の理解も得られません(すでに市長、副市長、教育長、市議会議員は報酬を1割削減しておりますが、全職員を含めた人件費の見直しが必要です)。同時に、歳出削減の為には、既成の事業や施策を停止または中止する勇気も必要です。内田市長も、コロナ対策として不要不急の事業を停止するとしましたが、市長の肝いり政策で16.5億円の工費を要する「子ども図書館」整備事業については、来年度以降への先送りは決定されたものの未だ正式な事業の中止は表明されておりません。(参考:(仮称)子ども図書館は中止ではなく一時中断)私は箱物事業としての「子どもと図書館」はもはや不可能になったと考えています。市長の最終決断が待たれます。
〇公有財産の戦略的な活用による新たな財源獲得を!
このように市税収入の大幅な落ち込みによる財政危機に対して大胆な歳出削減努力が求められる一方で、公有財産の戦略的な活用による新たな財源獲得のための努力も不可欠です。その象徴的な事例が新浦安駅前プラザ・マーレ一階にあるチャレンジショップです。これまで市は、このチャレンジショップについて、新たな創業を支援するとし、マーレ一階の店舗スペース(66坪)を一年間無償で提供し、さらには光熱費の半分を負担して来ました。しかし新浦安駅前ロータリーに面した一等地に位置するこの店舗スペースをテナントに貸し出せば年間数千万円もの賃料収入=新たな財源を見込むことが出来ることから、私は議会でも現在のチャレンジショップ事業の見直しとマーレの有効活用を市に求めてきました。しかしながら、市はこれまでの事業成果を十分に検証することなく、チャレンジショップの継続を決定したことは遺憾と言わざるを得ません。他にも内田市長が約2億円をかけて作った三番瀬環境観察館も、市民に有料のテレワークスペースとして開放したり、民間と連携しておしゃれなカフェを入れたりすれば、幾らでも収益源として活用できる筈です。(参考:浦安「三番瀬環境観察自然園」について総まとめ!)こうした新たな財源獲得の努力も尽くさずして、市から「お金がない」と言われても市民は納得しないのではないでしょうか。
〇浦安の将来を切り開く中長期的な発展戦略を示せ
以上で私が提案した方策は、当面の財政危機を乗り越えるための短期的施策と言えますが、浦安の繁栄を切り開くためには、中長期的なスパンでの発展戦略が求められます。それが今回の市長選における第三のテーマである将来に向けた発展戦略についてです。内田市長は令和元年に20年スパンの基本構想と10年スパンの基本計画からなる新総合計画を策定されました。コロナが来る以前から、本市は急速な高齢化による人口構造の変化、80年代に作った学校や公民館などのインフラの老朽化により歳出の増加圧力が強まり、既に総合計画策定時点で令和6年には財政が歳出超過に転じるとの予測が示されておりました。これは数字で見ても、平成26年に143.6億円あった財政調整基金の残高が令和元年には86.2億円にまで減少する反面、地方債残高は175.9億円から290.9億円と急速に増加していたことなどにも現れていました。(参考:浦安市の財政状況について―他市との比較)今回のコロナショックで財政悪化傾向は一気に強まりましたが、何れにしてもこれまでの右肩上がりの成長が終焉し転換点に立つ本市は、都市としての新たな付加価値を打ち出し戦略的な生き残りを図る時機に際会していることは間違いありません。
〇教育改革こそ発展の基だ
そこで私は、本市の中長期的発展の鍵を握るのは①公教育改革による全国屈指の教育水準の実現②国や地元企業、べンチャーキャピタルと連携したスタートアップ・エコシステムの構築にあると考えます。まず①の公教育改革についてですが、戦後我が国の公教育は自国の伝統や文化を否定し、「教育機会の均等」の名のもとでの悪平等教育がまかり通ってきました。しかし我が国が厳しい国際競争のなかで生き残り、誇りある国家としての栄光を勝ち取るためには、自国の伝統文化に誇りを持ち、個人の能力や才能を最大限に引き出す公教育を実現せねばなりません。さもなくば、教育格差はどんどん拡大し、我が国の将来を担う若者たちは、無気力と貧困の淵に沈んでしまいます。本市としても、公教育の形骸化は優秀な子弟の市外流出を加速し、市民間の教育格差を拡大させると共に、故郷意識の形成に支障を来すと考えられます。そこで方策として、小中一貫校の創設が挙げられます。これは義務教育課程を統合することで、従来の学級や学年に囚われず個人の学習段階に応じたカリキュラムを提供することが可能になります。公教育改革による教育水準の向上は、教育意欲の高い子育て世帯を呼び込み、市税収入の増加にもつながります。
また我が国の伝統文化に誇りを持てる教育についても、私はこれまで乃木大将と浦安との所縁(参考:浦安と乃木大将)や拉致問題への啓発、尖閣諸島に関する領土教育(参考:『石垣尖閣情勢視察報告書』を提出)、祝祭日の由来や意義に関する教育(参考:【動画】祝祭日の意義に関する教育についての質問(令和2年12月17日))などを引き合いに出しながら手を変え品を変え議会で質問し、子供たちが正しいし歴史観や国家観を培えるような教育の実現を市に求めて参りました。ところが昨年8月に行われた四年に一度の教科書採択では、残念ながら無国籍主義の歴史公民教科書(歴史は帝国書院、公民は東京書籍)が採択されてしまいました。しかし、愛国心のない人間は真の国際人やグローバル人材にはなれません。浦安から世界で活躍する人材を輩出するには我が国に誇りが持てる教育を実現せねばなりません。
〇市を挙げたスタートアップ支援の必要性
次に②のスタートアップエコシステムの構築については、本市も商工観光課や商工会議所が主体となった創業支援を行っています。しかしチャレンジショップの運営など、行政側の制度設計やイニシアティブが不十分なためにいまだ効果的な事業・施策にはなっていません。先にコロナで苦しむ飲食店を支援する為に、テイクアウト情報サイトやデリバリーボランティアに乗り出す自治体が出ていると述べましたが、なかでも横浜市は、フードデリバリーを手掛ける地元ベンチャーと商店街、市が連携して「うまいぞ!横浜」プロジェクトを展開しています。しかしこれも一朝一夕で実現したことではなく、時代に先駆けた横浜市のスタートアップ集積、大企業や研究開発拠点の構築といったエコシステム構築の取り組みがありました。(参考:横浜市と地元スタートアップが連携したフードデリバリーサービス「うまいぞ!横浜。」プロジェクト)インキュベーションやイノベーションを促すには、時代の先を見越したリーダーが率いる行政のイニシアティブと、地元企業や商店街、大学、ベンチャーキャピタル、知力ある市民、そして地元愛に溢れたスタートアップなどが有機的に連携したエコシステムの構築が不可欠です。そして浦安の場合、そのためのスタートアップ支援拠点としてマーレを活用するなどの方策を真剣に検討すべきです。本市の基幹産業である観光業がコロナで揺らぐ中にあって、本市もスタートアップ支援に本腰を入れることで将来を担う新たな産業を創出せねばなりません。
以上、今回の市長選に関する三つのテーマ、すなわち第一に内田市政は松崎前市政からの「継続と刷新」が実現できたか、第二に内田市政のコロナ対策(感染対策、経済対策)は十分であったか、第三、中長期的な将来の発展戦略を描けているかについて見てきました。そのなかで、幾つか政策提言もしましたが、前述した以外にも、今後30年以内に7割以上の確率で発生するとされている南海トラフ地震や首都直下型地震への対応やフードロス削減の為のフードシェアリング、AI婚活の導入、行政手続きのデジタル化、情報公開の促進など、山積する政策課題は多岐に渡ります。
何れにしても今回の市長選挙が、これまでのような地縁血縁、義理人情の選挙ではなく、政策論ベースで多くの市民が議論に参加し浦安の発展に寄与する選挙になることを切に願っております。
山鹿流兵学者から「国体」への目覚めまで
吉田松陰先生は尊皇攘夷の思想家であり教育者です。先生の名は、教科書にも出ており、司馬遼太郎の小説『世に棲む人々』や大河ドラマ『花燃ゆ』でも主題になりましたので有名ですが、それらは先生の外形的・表層的な足跡を捉えただけであり、先生の思想の内奥に迫るものではありません。私は学者ではないので先生が、いつどこで何をしたと云った、外形上の知識には興味がありません。先生の思想、精神を明らかにし、これを継承することが肝心だと思っています。
先生は文政13(1830)年、長州藩士杉百合之介の次男として、萩郊外の松本村に生まれました。杉家は23石の「無給通」(給地を与えられない)下級武士です。しかし天保5(1837)年に叔父の吉田大助の養子となりました。吉田家は代々長州藩の山鹿流兵学師範の家系であり、57石と杉家より格上でした。翌天保6(1838)年に、養父大助が亡くなったことから、松陰は若干6歳で吉田家を継ぎ、山鹿流兵学師範になるべく、父百合之介や叔父の玉木文之進から熱烈なスパルタ教育を受けました。
天保10年(1839)年には、藩主毛利敬親の前で山鹿素行の『武教全書』を進講(親試)して早熟の天才ぶりを発揮して驚かせました。しかし、吉田大助の高弟、山田宇衛門は、松陰の師である玉木文之進の保守性を危惧し、松陰に世界地図「坤輿図識(こんよずしき)」を贈り、海外情勢への興味を促しました。松陰は右衛門から紹介された山田亦介から長沼流兵学の教えも受けています。さらに大助の高弟、林真人から平戸遊学を勧められ、嘉永3(1850)年、平戸に向けて出発しました。平戸では、藩家老の葉山左内や山田万介と会い、貪欲な知識欲によって海外の新知識を獲得しました。世に松陰先生は、頑迷な攘夷主義者と目されますが、「松陰の攘夷論は、アヘン戦争など列強による東洋植民地化政策への警戒にもとづくものではあったが、単純な排外思想ではなかったのである。欧米の情勢を把握し、その先進文明を積極的に吸収しようとする開明的な方向に視線を据えていたのだといってよい。そうした平戸における読書の収穫は、後に佐久間象山との接触により、新たな開眼と展開を遂げるのである。」(古川薫「史伝・吉田松陰」)長州への帰路で立ち寄った肥後藩では、後に一緒に東北旅行をする宮部鼎蔵と出会いました。宮部は、肥後の山鹿流兵学師範、いわば山鹿流繋がりであり、松陰先生より10歳上の先輩です。
嘉永4(1851)年、藩主毛利敬親に随行して江戸に遊学しました。江戸では佐久間象山に師事しました。ときあたかも東北沖に異国船がたびたび出没していたため、先生は情勢を視察するため、宮部鼎蔵や盛岡藩士の江幡五郎と東北旅行を計画し、藩の許可を得ました。しかし、出発の直前になって、関所を通行するために必要な「過書手形」(関所手形)がないことに気づきましたが、東北で親の仇を討とうとしている江幡や、尊敬する先輩である宮部を待たせる訳にはいかないと、そのまま脱藩し出発しました。
東北旅行の途中では、水戸を訪れ、水戸学の重鎮である会澤正志斎や豊田天功と会見し、「国体」に目覚めました。その時の感動を、親友、來原良三宛の書簡で「客冬水府に遊び、首として會澤・豐田の諸子にいたり、その語る所を聴く。輒ち嘆じて曰く、身、皇国に生れて、皇国の皇国たる所以を知らざれば、何を以て天地に立たん、と。」と述べています。後に松陰先生は、『講孟箚記』において「国体は一国の体にして、所謂独なり。君主・父子・夫婦・長幼・朋友、五者天下の同なり。皇国君臣の義、万国に卓越する如きは、一国の独なり」と述べ、「国体」は君臣の義に現れた固有の道義であると述べられています。かくして先生は水戸で「国体」と出会い、兵学者から国体思想家に脱皮しました。
東北旅行から江戸に帰還した先生は、長州藩邸に出頭し、そのまま萩に幽送され、自宅での謹慎を命じられました。その後、脱藩の罪で藩籍は剥奪されましたが、父百合之介の「育み」(保護観察)という処分で済んだのは、藩主敬親の恩情によるものと言われます。
「国体論」から「倒幕論」への展開
嘉永6(1853)年、松陰先生は、藩主敬親に促される形で、再度の江戸遊学に出発しました。ときあたかも、先生が江戸に着いた頃の嘉永6年7月に浦賀にペリーが来航し、幕府に開国を迫りました。そのことを知った先生は浦賀に急行し、黒船艦隊を観望しました。ペリーは大統領の国書を渡すと来年また来ると言って去りました。先生は、師である佐久間象山から海外留学を勧められ、同年8月にプチャーチン率いるロシア艦隊が長崎に来航すると、弟子の金子重之助と共に長崎に赴きましたが、着いた時には去った後でした。
翌嘉永7(1854)年にペリーが約束通り下田に来航しました。先生と金子は下田に赴き、夜陰に小舟を漕いでペリー艦隊に乗船し、アメリカへの渡航を希望しましたが断られ、送り返されました。先生は金子と共に幕府に自首し、伝馬町の獄に繋がれます。その後、金子と共に萩に送られ、先生は野山獄に金子は岩倉獄に入れられました。金子は足軽出身の下級武士であり、萩への護送も粗末な籠に入れられ、岩倉獄も不衛生極まりなかったため、やがて病を発し、翌安政2(1855)年に、25歳で世を去りました。先生は金子の死を悼んで『冤魂慰草』を書いています。
この安政2年という年は、先生にとって大いなる思想的な展開を遂げた年でもあります。先生が野山獄中の読書目録を記した『野山獄読書記』を見ると、安政2年1月から2月にかけて、浅見絅斎の『靖献遺言』及び『靖献遺言講義』を読んだことが分かります。浅見絅斎は、崎門学を創始した山崎闇斎の高弟であり、『靖献遺言』は絅斎の主著です。同書において絅斎は、シナ八人の忠臣の事績と遺言を編述し、湯武放伐を絶対に否定し、「君君たらずとも、臣臣たらざるべからず」を要諦とする我が国固有の君臣の義を明らかにしたのでした。先生は富永有隣宛の書簡で「昨(きのふ)此の書を借り、反復手を釈くに忍びず、聲を抗げて誦読し、傍らに人無き若し。」と記し、その感激を『詠史八首(靖献遺言を読むに因りて作る)』と題する詩に賦して明らかにしております(近藤啓吾先生『吉田松陰と靖献遺言』)。
先に東北旅行の途中で立ち寄った水戸で水戸学の国体論に出会ったと書きましたが、松陰先生はこの崎門学との出会いによって、その国体論の内実を得たと言えるのではないでしょうか。そのことは、野山獄の同囚に孟子を講じた『講孟箚記』の第一場において、主君をころころ変えた孟子を批判し我が国の国体を説いた次の一節に現れていると思います。いわく、君に事(つか)えて臣が忠を尽すのは、親に事えて子が孝を尽すのと一緒である。しかるに聖賢と言われる孔子や孟子が生国を捨てて君主を替えたのは、子が親を愚として替えるのと一緒である。これでは仮に天下が丸く治っても「詭遇して禽を獲る」、すなわち正道に依らずして当座の結果を求めるのと変わらない。功名を立てるのが重要なのではなく、国体の大義を立てれば、すぐに功名は立たずとも後世の模範となり、自ずから国の気風が起こって忠孝の道が立つ。その点我が国は、漢土の様に禅譲放伐がなく、万世一系の天皇を戴いている。よってこの天皇を戴く国体を明らかにし全国を挙げて君臣父子が忠孝に死すると云う信念があれば、外国の侵入など恐るるに足らない、というのです。
他にも先生の国体観は、甥の玉木彦介(文之進の子)の元服に際して贈った「士規七則」において、「およそ生まれて人となる。よろしく人の禽獣と異なるゆえんを知るべし。けだし人に五倫あり、しかして君臣父子を最大となす。ゆえに人の人たるゆえんは忠孝を本となす。」、「およそ皇国に生まれては、よろしくわが宇内に尊きゆえんを知るべし。けだし皇朝は万葉一統にして・・・。君臣一体、忠孝一致、ただわが国をしかりとなす。」と書いているのにも現れています。
こうした先生の「国体論」に対して、その「政体論」は、公武合体論でしたが、獄中から宇都宮黙霖という人物と手紙で論争するなかで、倒幕論に転じました。黙霖は、安芸出身の勤皇僧で、萩まで月性に会いに行った際に、松陰先生の記した『幽囚録』を読み、先生に山縣大弐の『柳子新論』を勧めています。この『柳子新論』は、近世勤皇運動の魁であり、明和事件で処刑された山縣大弐の書であり、君臣の大義名分から、幕府を否定し天皇親政を説いた書です。『野山獄読書記』にも、書名が見えます。大弐もまた崎門学の流れを汲んでいます。後に、安政5年7月に幕府が朝廷に無断で「日米修好通商条約」に調印したときには、「征夷大将軍は天下の賊なり。今措きて討たざれば、天下万世其れ吾れを何とか謂はん」と記すに至っています。(参考、坪内隆彦氏『GHQが恐れた崎門学』)
以上、見たように、先生の思想は、山鹿流兵学から水戸の国体論に進み、さらに崎門学を通じて尊王倒幕に展開したといえます。水戸学の国体論は主に「華夷(内外)の弁」に重きを置き攘夷思想の根底になりましたが、水戸が徳川親藩ということもあり、限界がありました。これを突破したのが崎門学です。上述したように崎門学は「君臣の義」を明らかにし、尊王斥覇を唱えたことから、尊王倒幕論の根底になったのです。徳富蘇峰は『吉田松陰』において、先生の尊王論について次のように解説しています。
「尊王と攘夷とは、当時においては殆ど異名同体、須臾も相離れざるの趣きありき。然れどもある者は、尊王よりして攘夷に来り、ある者は攘夷よりして尊王に来る。而して歴史的順序よりすれば、外より促し来る敵愾攘夷の念先ず点火し、内に蓄積したる尊王の念これに応じたるなり。則ち松陰の如きは、またこれ攘夷よりして尊王に来たりたる者なり。彼は現実的攘夷家にして空想的攘夷家にあらず。これ彼が水戸派と少しくその色合を殊にしたる所以なり。素より彼は尊王家なり、その尊王の精神に至っては終止を一貫せり、而して終に至って倍々(ますます)発揚せり。然れどもこれあるがために、彼は尊国体の念よりして尊王の念に波及したることを忘るべからざるなり。それただかくの如し、故に彼は初めより討幕家たらざりき。」「彼は尊王家に相違なしといえども、その主脳は日本の国家に在り。国家的観念、敵愾的観念、外国の侮辱に対する猜疑心、その自国同胞の卑屈に反潑する慷慨心等は、実に彼が満身の熱血を沸騰点まで上衝せしめ、この熱血の凝る所遡りて尊王の観念となり、而してこの観念と両立する能わざるに到りて、遂に倒幕とまで進みしなり。」
つまり、先生の尊皇攘夷思想は、攘夷から入る尊皇であって、その逆ではなかったということです。無論、素朴な尊皇心は前からあったでしょうが、水戸学の「尊国体」から崎門学を通じて真の尊皇に到達したといえましょう。そのことは先生自身も反省しておられていて、「一友(黙林)に啓発せられ、矍然として始めて悟る、従前天朝を憂いしは、並に夷狄に憤をなして見て起せり本末既に錯(きか)う、真に天朝を憂うるに非ざりしなり」(「又読七則」『丙辰幽室文稿』所収)と述べておられます。
松下村塾での教育と『留魂録』
安政2(1855)年、野山獄から出獄を許された松陰先生は、杉家の一室で謹慎し、当時松下村塾を営んでいた叔父の久保五郎左衛門に「松下村塾記」を書き送っています。そのなかで先生は、「學は、人たる所以を學ぶなり。塾係(か)くるに村名を以てす。誠に一邑の人をして、入りては則ち孝悌、出でては則ち忠信ならしめば、則ち村名これに係くるも辱ぢず。若し或は然る能はずんば、亦一邑の辱たらざらんや。抑々人の最も重しとする所のものは、君臣の義なり。國の最も大なりとする所のものは、華夷の辨なり。今天下は何如なる時ぞや。君臣の義、講ぜざること六百餘年、近時に至りて、華夷の辨を合せて又之れを失ふ。然り而して天下の人、方且(まさ)に安然として計を得たりと爲す。神州の地に生れ、皇室の恩を蒙り、内は君臣の義を失ひ、外は華夷の辨を遺(わす)れば、則ち學の學たる所以、人の人たる所以、其れ安くに在りや。」と述べ、学問の目的が君臣内外の義を正すことにあることを明示されました。
翌安政4(1857)年、先生は、五郎左衛門から松下村塾を受け継ぎました。松下村塾の初代塾長は叔父の玉木文之進であり、その後、久保五郎左衛門が継ぎましたので、松陰先生は三代目です。先生は、野山獄で出会った富永有隣を教授に迎え、周知のように高杉晋作や久坂玄瑞を始めとする多くの弟子を身分の分け隔てなく教育しました。
こうしたなか、安政5(1858)年、井伊直弼が幕府の大老に就くと、日米修好通商条約を朝廷を勅許をえることなく、独断で調印し、反対派の弾圧を始めました(安政の大獄)。これに激昂した先生は、倒幕の意思を固め、水戸や薩摩の藩士が江戸で井伊を討つ計画があるのに呼応して、井伊の代理として京都に上る老中の間部詮勝の暗殺を画策し、藩に武器の提供を願い出ます(「間部要撃策」)。これに驚いた長州藩の首脳は、再び先生を野山獄に幽閉し、松下村塾の閉鎖を命じます。先生は、江戸に遊学中の高杉や久坂などの弟子たちに間部要撃を期待しましたが、高杉等は却って自重を求める「勧告文」を送り返し、先生を敬遠するようになりました。先生は、「僕は忠義をする積り、諸友は功業をする積り」と憤懣を漏らしています。次に先生は、忠実な弟子である入江杉蔵(九一)と野村和作の兄弟に、参勤交代で江戸に向かう藩主敬親の駕籠を途中の伏見で迎え、三条実美や大原重徳などの反幕派の公卿と会わせて倒幕の挙兵をさせる「伏見要駕策」を命じましたが、これも藩の知る所となり、入江兄弟は萩の岩倉獄に入れられました。先生は野村への手紙で「今までの処置、遺憾なきこと能はず。それは何かと云ふに、政府(藩)を相手にしてが一生の誤りなり」と述べ、ついには「草莽崛起、豈他人の力を借らんや。恐れながら、天朝も幕府、吾が藩も入らぬ」と、「草莽崛起」の姿勢を明らかにしています。
安政6(1859)年4月、幕府は長州藩に松陰の江戸召還を命じました。先生は「帰らじと思ひさだめし旅なればひとしほぬるる涙松かな」の歌を遺し、萩を発ちました。江戸についた先生は伝馬町の獄に入れました。下田踏海事件以来、二度目の入獄です。評定所に呼び出された先生の取り調べ内容は、安政の大獄で最初に処断された梅田雲浜が長州に行ったときに面会したというが、いかなる密談をしたかということと、京都御所内に落文があったが、その筆跡が先生によく似ていると雲浜その他が言っている、覚えがあるかという件でした。しかし、先生はこの機会に「至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざるなり」の志で、自らの所信を述べて幕吏を説得しようと思い、聞かれてもいない「間部要撃策」などのことを告白してしまいました。これによって、先生は死罪を免れなくなりました。
評定所での取り調べによって、死を覚悟した先生は、牢内で家族親類に宛てた遺書である『永訣書』を認め、その冒頭で「親想ふこころにまさる親心けふの音づれ何ときくらむ」という辞世を示しています。また門人達に宛てた遺書として『諸友に語ぐる書』と『留魂書』を認めています。
なかでも『留魂録』は、27日の処刑の直前である10月25日から26日にかけて書いた遺書で、先生の深い死生観が示されていて胸を打ちます。先生の死後、先生の亡骸と遺品は、江戸に在った桂小五郎、手附利介、尾寺新之丞、飯田正伯等の門人に下げ渡され、前述したように亡骸は小塚原回向院に埋葬され、遺品に含まれていた『留魂録』は、萩にある高杉晋作、久保清太郎、久坂玄瑞等に送られ、弟子らの間で回覧されました。しかし後に紛失し所在不明になりました。現在残る『留魂録』の実物は、先生と小伝馬町獄の同囚であった沼崎吉五郎という人物が伝えたものです。実は、先生は自らの死後、『留魂録』が獄吏に没収されることを恐れ、同文を二通認めて、一通を沼崎に託していたのでした。沼崎は、伝馬町獄の牢名主を務めていたので、獄吏に顔が利き、獄中で先生から『孫氏』や『孟子』などの講義を受けていたことから深い尊敬を寄せていました。そこで先生の死後は、亡骸や遺品の下げ渡しでも骨を折り、『留魂録』を大事に取っておいたのでした。その後、沼崎は三宅島に流され、その地で明治維新を迎えます。それから年月は過ぎ去り、明治9年に、当時神奈川県県令(知事)に出世していた野村靖(旧名和作)の前に一人の老人が現れます。それは罪を許されて本土に帰ってきた沼崎その人でした。沼崎は野村に松陰先生から預かった『留魂録』を手渡すと飄然と去っていったといいます。かくして、今日我々が『留魂録』の実物を観ることができるのは沼崎のお蔭であり、現在それは萩の松陰神社資料館に展示してあります。
『留魂録』は、冒頭有名な「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂」の辞世から始まります。評定所における取り調べについて述べ、至誠を以って幕府を説得しようとしたが、奉行の権力的詐術によって死を免れなくなった次第を説いています。また「尊攘堂」と命名した大学校を京都に起こして尊皇攘夷の正論を天下に示すことを入江九一に託し、門人たちに、獄中で志を結んだ堀江克之介や鮎沢伊太夫、長谷川宗右衛門、小林民部などと志を通じる必要を説くなどしております。なかでも見どころは、自らの人生を四季の循環になぞらえた一章です。以下に現代語訳を掲げます。
「今日、私が死を目前にして、平安な心境でいるのは、春夏秋冬の四季の循環ということを考えたからである。
つまり農事を見ると、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈りとり、冬にそれを貯蔵する。秋・冬になると農民たちはその年の労働による収穫を喜び、酒をつくり、甘酒をつくって、村々に歓声が満ちあふれるのだ。この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむものがいるということを聞いたことがない。
私は三十歳で生を終わろうとしている。いまだ一つも成し遂げることがなく、このまま死ぬのは、これまで働きによって育てた穀物が花を咲かせず、実をつけなかったことに似ているから惜しむべきかもしれない。だが、私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えたときなのである。
なぜなら、人の寿命には定まりがない。農事が必ず四季をめぐっていとなまれるようなものではないのだ。しかしながら、人間にもそれにふさわしい春夏秋冬があるといえるだろう。十歳にして死ぬ者には、十歳の中におのずから四季がある。二十歳にはおのずから二十歳の四季が、三十歳にはおのずから三十歳の四季が、五十、百歳にもおのずからの四季がある。
十歳をもって短いというのは、夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。百歳をもって長いというのは、霊椿を蝉にしようとするようなことで、いずれも天寿に達することにはならない。
私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているいるはずである。それが単なるモミガラなのか、成熟した粟の実であるのかは私の知るところではない。もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐み、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになろう。同志よ、このことをよく考えてほしい。」(古川薫全訳注『留魂録』講談社学術文庫)
このように、松陰先生は、生死そのものには重きをおいておらず、志が受け継がれることで身は滅んでも魂は生き続けることを重視しておられます。そのことは、安政6年七月中旬、高杉晋作の「男らしい男として、どういう時に死んだらいいのでしょうか」という質問に対して答えた高杉宛の手紙で、「世の中では、たとえ生きていたところで、体だけが生きていて、心が死んでしまっている・・・・・・という人がいます。その逆に、体は滅びても魂は生きている・・・・・という人もいます。たとえ生きていても、心が死んでしまっていたのでは、何の意味もありません。逆に、体は滅びても魂が残るのであれば、死ぬ意味はあるでしょう。・・・ですから、死んで自分が“不滅の存在”になる見込みがあるのなら、いつでも死ぬ道を選ぶべきです。また、生きて、自分が“国家の大業”をやりとげることができるという見込みがあるのなら、いつでも生きる道を選ぶべきです。」と述べていることにも表れています。
先生の最期
安政6(1859)年10月27日、評定所で死罪を宣告された即日、伝馬町牢獄の刑場で斬首されました。享年三十歳でした。評定所で立ち会った長州藩士、小幡高政の談話によると、評定所に連れて来られた先生は髪や髭はボウボウに伸び、並み居る奉行などの役人を見回す眼光は炯々として凄みがあったと言います。そして死罪の宣告があり、立ち上がって潜戸から出たときに、
我今為国死(我今国の為に死す)
死不背君親(死して君親に背かず)
悠々天地事(悠々たり天地の事)
観照在明神(観照は明神に在り)
との五言絶句の辞世を朗誦しました。
「時に幕吏なほ座にあり。粛然と襟を正してこれを聞く。肺肝をゑぐらるるの思ひあり。護卒また制止するを忘れたるものの如く、朗誦終りてわれにかへり、狼狽して駕籠に入らしめ、伝馬町の獄に急ぐ」
伝馬町の獄に帰った先生は、獄舎の人々に礼を言われ、堀江克之介や長谷川宗右衛門、小林民部等の同志と面会しましたが、会話が禁止されているので、大音声で辞世の詩歌(身はたとひ」の歌と、五言絶句の詩)を三遍朗誦し、その志を伝えました。
先生の最期の様子については、依田学海の日記に、現場にいた吉本平三郎という同心の談として、「奉行死罪のよしを読み聞かせし後、畏り候よし、うやうやしく御答へ申して、平日庁に出づる時に介添せる吏人に久しく労をかけ候よしを言葉やさしくのべ、さて死刑にのぞみて鼻をかみ候はんとて、心しずかに用意してうたれけるとなり」とあり、これほどまでに落ち着いて死んだ者は見たことがないと言って、感動して泣いていたとの話を伝えています。
先生の死については、兄杉梅太郎の談話として感動的な逸話が残されています。
それは、先生が処刑されたころ、先生の実家である杉家では、兄梅太郎と弟敏三郎が共に病床に臥し、父母は看病で疲れ切っていました。そんなある日、先生の母滝は、先生が元気な姿で帰って来て、声をかけようとしたら突然いなくなるという不思議な夢を見、そのことを父百合之助に告げると、百合之助も滝に、実は私、首を切り落とされて、なぜかとても愉快な心地になる夢を見たと告げました。それから二十日ほどして、江戸から先生の処刑の報せが届きました。そのとき、両親は、先日の夢のことを思い出し、指を折って数えたところ、先生の処刑の日が、まさにその夢を見た日と一致することに気づいたのです。思い返せば、先生が江戸に送られる日の前の晩、一日だけ許しを得て家に帰った先生は、風呂場で滝にまた元気な姿で帰ってくると約束していました。先生は夢のなかで現れてその約束を果たしたのです。また父も、夢のなかで首を斬られるのを心地よいと感じたのは、先生が「自分には何も心残りはありません」との思いを伝えるためではなかったと解釈しました。まさに「親想ふこころにまさる親心けふの音づれ何ときくらむ」と詠んだ先生らしく、親子の想いが感応した出来事でした。
先生の死後、遺骸は江戸にいた弟子の桂小五郎(木戸孝允)や飯田正伯に引き取られ、小塚原回向院に埋葬されました。その後、高杉晋作や伊藤博文等の手により、世田谷にある現在の松陰神社に改装され、長州征伐の際に破壊されましたが、木戸孝允等の手で修復されました。いまも松陰神社の境内には、同じく安政の大獄で処刑された小林民部や頼三樹三郎(山陽の子)等と並んで、先生の墓石が佇んでいます。