『崎門学者、梅田雲浜』(『崎門学報』第五号より転載)

梅田雲浜生誕200年

梅田雲浜肖像今年は幕末の志士、梅田雲浜の生誕200年です。梅田雲浜は、文化12年(1815)6月7日、若狭小浜藩に生まれました。若くして崎門学を修め、黒船来航以降は、京都を中心に尊攘派志士の領袖として活躍しました。なかでも日米修好通商条約への勅許を奏請した老中の堀田正睦(まさよし)に対して孝明天皇が下された勅答は、雲浜が青蓮院宮尊融法親王(久邇宮朝彦親王)に建白した意見書が原案になったとされ、さらにその後、朝廷が水戸に下された「戊午の密勅」もまた雲浜の働きかけによるものとする説があります。

雲浜は、幕末における勤皇運動の魁として、天下の志気を鼓舞し、明治維新の端緒を開く重要な働きをしましたが、それ故に幕府からは「悪謀四天王」の一人と目され、「安政の大獄」ではおよそ百二十人いたとされる検挙者のなかで最初に捕縛され、安政6年(1859)に獄死しました。一般にその功績は、橋本左内や吉田松陰、西郷隆盛といった、維新の元勲ほど知られてはおりませんが、西郷は雲浜の人物を評して「雲浜今に生きながらえてゐたならば、我々は執鞭の徒に過ぎないであろう」と述べています。

雲浜と崎門学

幕末の当初、幕府の外交に定見なく、諸藩はいまだ幕藩体制に呪縛されている中にあって、雲浜は一介の浪人儒者の立場からいち早く皇室中心主義を掲げ、諸藩の間を東奔西走し、尊攘派の一大ネットワークを作り出しました。その思想の根本をなし、彼の行動に指針を与えたのが崎門学です。江戸時代前期、山崎闇斎によって創始された崎門学は、朱子学的な大義名分論によって尊皇斥覇の思想を鼓吹し、その学は、闇斎の高弟である浅見絅斎、さらにその弟子の若林強斎によって受け継がれました。強斎は京都に忠臣楠公の名を仰いだ「望楠軒」を開き、多くの門弟を育てましたが、なかでも優秀であった小野鶴山と西依成斎は共に小浜藩に招聘され、小浜に崎門学を伝え、さらにその後京都に戻った成斎は望楠軒の講主として崎門の学統を守りました。

こうした機縁により、以来、崎門学と小浜藩は深く結び付き、藩校の順造館では崎門学によって藩士が教育され、また望楠軒は小浜藩の実質的な管理下に置かれるようになります。小浜出身の雲浜もまた、若き日に順造館で学び、後に上京して望楠軒に入門しています。その後、天保元年、雲浜16歳の時に江戸に遊学して山口菅山に入門しますが、この菅山もまた小浜藩士で、前述した西依成斎と小野鶴山の門人であり、菅山の門人には薩摩志士の有馬新七等がおります。そして天保14年、29歳の時には、望楠軒の講主に就いて崎門学の第一人者と目されるに至りました。

困学の志士

雲浜の生涯の大半は貧乏で苦学を強いられたようです。彼は天保11年26歳の時に、多年の修学を終えて江戸から小浜に帰ると、その翌年には大津の崎門学者である上原立斎に入門しようとしましたが、立斎はかえって雲浜の学識に敬服し、雲浜は大津に留まって湖南塾という名の塾を開きました。その時、門人となった大和五条の乾十郎は後に天誅組に加わったことでも有名ですが、彼が友人に出した手紙には「梅田氏至って困窮にて、すべて別会計にしなければならないから、夜具ふとんを送って下さい。ぜん、わん等も入用であるが、費用もかかるゆえ、お送りには及ばない。今日から米、まき、炭、油、はきもの等も調えたいが、一文無しゆえ、僕の八家文(唐宋八家文読本)を典物にして金子二歩ばかり都合してもらいたい。五条から綿入が到着したらお送り下さい。梅田氏の経義の話、ならびに利義の弁、うけたまわり大に敬服した」と書いています。

当時の貧乏生活が忍ばれますが、それは雲浜が大津から京都に戻った後も、望楠軒の講主を無報酬で引き受けた為にあまり変わらなかったそうです。それでも、雲浜の身分は小身ではありますが小浜藩士であり、かろうじて生活は維持できたようです。弘化元年、雲浜30歳の時には前述した上原立斎の長女信子(しんこ)と結婚し、32歳の時には長女竹、38歳の時には長男繁太郎が誕生しています。これでようやく雲浜にもささやかな家庭的幸福が訪れるかに思われましたが、ときあたかも我が国の周辺では外国船の往来が頻繁になり、長男繁太郎が生まれた翌年の嘉永六年にペリーが浦賀に来航したことによって、事態は一変風雲急を告げるに至ります。その前年、雲浜は、小浜藩主の酒井忠義に「藩政の得失と外寇防御」に関する意見書を提出したのですが、それがかえって藩主の逆鱗に触れ、ついに彼は藩籍を削られてしまいます。かくして雲浜は一介の浪人となったのですが、その頃から百日もの永きにわたる病気を患い困窮のために京都にも住みかねて、高雄山に移りましたが、あまりにも不便なので、比叡山の麓にある左京区一乗寺に転居しました。

今年の9月19日から坪内隆彦兄と一泊二日で京都を訪れましたが、その際我々が最初に向かったのは、この一乗寺の葉山観音堂内にある旧雲浜宅跡でした。タクシーで坂を上ってしばらく行ったところにその場所はありましたが、先日の豪雨で土砂崩れが起こったらしい山肌の斜面はビニールシートで覆われ、「梅田雲浜先生旧蹟」と題した石碑がひっそりと佇んでいました。その石碑には「雲浜翁嘉永三年(五年の誤り)葉山に寓し、勤皇諸同志と国事を議し、或は四明山下一閑人石川丈山を追慕して、閑に風月を弄せり。長岡監物の臣某が来て、浅見絅斎の赤心報国刀を求め、山県元帥が謁して教を請ひ、翁の夫人信子が「拾ふ木葉」の名歌を作りしも皆此時なりき。・・・」(原文カタカナ)と記されていました。碑文の通り、雲浜はこの場所で妻子と閑居し、写本をするなどして生計を助けましたが、その生活は、一日に二食か一食、断食することもしばしばで、妻の信子が詠んだ「樵りおきし軒のつま木もたきはてゝ拾ふ木の葉のつもる間ぞなき」の歌は当時の苦境を忍ばせ胸が痛みます。

尊皇から勤皇へ

嘉永6年のペリー来航に対して幕府は狼狽するばかりで一定の方針なく、畏れ多くも孝明天皇は痛く宸襟を悩まされ給いました。幕府はその場凌ぎの対応で一度はペリーを追い返しましたが、翌安政元年にペリーが再来航すると、遂にその軍事的恫喝に屈して日米和親条約を締結します。かくして徳川幕府二百年来の鎖国政策は終止符を打ったのでありました。この最初の来航に対して雲浜は、京都で平生意気投合していた同志の梁川星巌や頼三樹三郎(山陽の子)と対策を協議しておりましたが、その後再来航の報に接し、もはや時局を座視することはできないと、決起して江戸に急行し、志士としての行動を開始しました。ときに雲浜四十歳。それまでの尊皇家、雲浜から、勤皇家、雲浜の誕生です。江戸では志士鳥山新三郎の家で吉田松陰等諸藩の同志と会見し、対策を協議しています。

まず雲浜が目を付けたのは水戸です。言うまでもなく、水戸藩は徳川御三家の一にして水戸学の本家であり、前藩主の徳川斉昭は諸侯の中で尊皇攘夷を主唱しておりました。そこで、雲浜はこの水戸を動かして勤皇の兵を起こし、幕府に攘夷を迫ろうとしたのです。そのために、江戸では藤田東湖、更に水戸に赴いて武田耕雲斎、金子孫二郎、高橋多一郎等の志士と会見しましたが、何れも藩論をまとめるには至りませんでした。

かくして水戸から帰って後、今度は福井に赴き、村田已三郎や岡田淳介等の同志と時務を論じ、尊攘論を鼓吹するなどしています。この岡田淳介の兄は藩儒、吉田東篁であり、東篁は橋本左内に崎門学を教えた人物です。また水戸学は、『保建大記』の著者である栗山潜鋒等の闇斎門下を通じて崎門学の影響を受けており、雲浜が志士の活動の皮切りに、この崎門の学風を受けた水戸と福井に赴いたのは、崎門学徒たる雲浜の面目躍如たるものがあります。

同じく安政元年四月、御所で大規模な火災があり、御所の守護体制の不備が露呈しました。京都所司代は、朝廷を守護するといいながら、実際には幕府の監視機関に過ぎず、皇居は殆ど無防備の状態にあったのです。そこで雲浜は朝廷直属の親兵を錬成する必要を痛感し、その為大和の十津川郷士の練兵に着手します。歴史的に十津川は尊皇心が強く、南北朝時代、十津川郷士は南朝に付いて後醍醐天皇の第三皇子である大塔宮護良親王を北朝から匿ったことでも知られます。後年、雲浜に指導された十津川郷士は、朝廷から召されて京都を守護し、戊辰の役では第一御親兵として北越地方に出征しました。

さて、福井から雲浜が帰ると、妻の信子と長男の繁太郎は病気で寝込んでおりました。この為、家事は雲浜がすることになりましたが、ときあたかもロシアのプチャーチンの乗った軍艦が大阪湾に現れ、大阪から近い京都は大騒ぎになりました。これを見た十津川郷士は御所の安危を憂い、雲浜を軍師に迎えてロシア船を打ち払わんと大阪に向かいます。雲浜は郷士の招請を快諾しましたが、心残りは病床の妻子でありました。雲浜の詩として有名な以下の詩は、かくしてロシアの撃攘に赴かんとする雲浜が出陣に際して賦したものです。

妻は病床に臥し児は飢えに叫ぶ

身を挺して直に戎夷に当らんと欲す

今朝死別と生別と

唯皇天后土の知る有り

ところが雲浜一行が大阪に到着した時は、すでにプチャーチンは大阪湾を去った後でした。雲浜が空しく帰京した時、妻の信子は重篤に陥り、ついに安政2年三月、長男繁太郎と長女の竹を残して亡くなりました。享年29歳の若さでした。雲浜は、国事の為に人一倍苦労をかけた信子を哀れみ、生涯彼女の位牌が入った小さな小箱を懐に入れて持ち歩いていたと云われます。更に翌年の安政3年二月には長男繁太郎が五歳にして病死しました。僅かの間に不幸が重なり、雲浜の心境は悲痛を極めたでしょう。それでも、彼は国事を諦めませんでした。

何としても幕府の弱腰外交を改めるには、朝廷を奉り、大藩を動かして攘夷の実を挙げる他ない。そう考えた雲浜は、外様の雄藩である長州に目を付け、安政三年萩に赴いて坪井九右衛門等の有力者と会見しました。しかし、水戸遊説の失敗に学んだか、今度は直ちに攘夷を説くのではなく、まず長州と京阪地方の間に物産の交易を興して勤皇の端緒を開くべきことを長州に説いたのです。後にこの意見は長州藩主毛利慶親の採用する所となり、長州側では宍戸九郎兵衛や前述の坪井を窓口として米、塩、ろう、乾魚、半紙等を、上方からは大和高田の富豪、村島長兵衛、大和五条の乾十郎などを窓口として、呉服類、小間物、薬種、材木等が取引されました。長州遊説に際して雲浜は吉田松陰を訪ね、松下村塾の額を書いております。それは当時松陰が江戸に送った手紙に「去臘(安政三年十二月)京師梅田源次郎来遊、正月(安政四年)中頃迄逗留致し候。満城心服の様子に相聞え候。松下村塾の額面も頼み候て出来申し候」と記してあり、雲浜が松下村塾の塾生を含む長州人士のなかで信望を得たことが伺われます。かくして雲浜は長州との間に特別なパイプを築くことに成功し、それは後の勤皇活動でフル活用されました。

その頃の雲浜の門人や知人を挙げると、門人では大和の乾十郎、若狭の行方千三郎、長州の赤根武人、播州の大高又次郎、紀伊の伊沢宜庵、知己では肥後の宮部鼎蔵、長州の宍戸九郎兵衛、福原越後、浦靱負、僧月性、入江九一、久坂玄瑞、高杉晋作、大楽源太郎、前原一誠、野村靖、水戸の桜任蔵、菊池為三郎、豊田小太郎、薩摩の西郷隆盛、伊知地正治、因幡の安達清一郎、姫路の河合総兵衛、秋元正一郎、名古屋の大道寺泰安、阿波の竹沢勘三郎、十津川の深瀬繁理、野崎主計、田中主馬造、丸太監物、藤井織之助と、実に広範な人脈を築いております。

朝廷への建策

安政三年七月、米国総領事のハリスが来日し、第十三代将軍の徳川家定に米国大統領の国書を捧呈しました。その国書には、日米両国が先の和親条約を改正して通商条約を締結する必要が説かれておりました。幕府はハリスの説得に応じ、林大学頭等を京都に遣って、朝廷の勅許を得ようとしました。ところが、孝明天皇はあくまで攘夷を思し召されておりましたので、これをお許しになりませんでした。そこで今度は老中の掘田正睦が京都に赴いて、条約の勅許を奏請いたしましたが、天皇は以下のような勅答を下されて、この奏請を却下せられました。

墨夷のことは、神州の大患、国家の安危に係り、まことに容易ならず。神宮を始め奉り、御代々へ対させられ恐れ多くおぼしめさる。東照宮以来の良法を変革の儀は、人身の帰向に相かかわり、永世の安全ははかり難く、深く叡慮を悩まさる。もっとも往年下田開港の条約(和親)も容易ならざる上に、今度仮条約(通商)のおもむきにては、御国威立ち難くおぼしめさる。かつ諸臣群議にも、今度の条約はことに御国体にかかわり、後患測り難きの由言上せり。なお三家已下諸大名へ台命を下し、再応衆議の上言上あるべく仰せ出さる。

この勅答によって、孝明天皇のご主意が攘夷であることが満天下に明らかとなり、条約調印を目指す幕府との齟齬が露呈しました。元来幕府は政治の実権を握りながらも、名目上は朝廷の大政を委任された存在でありますので、朝廷の意向に反する決定は、いかに幕府といえども存立の正当性を揺るがしかねません。事実この勅答によって幕府の面目は丸潰れとなり、尊攘派が一気に勢いづきました。事ほど左様に重要なこの勅答ですが、実は雲浜の建白が原案になったと言われているのです。先に雲浜は、京都で上述した諸国の志士達の他に、有力な公家堂上方の家臣を知己に得ました。その人脈は、有栖川宮家の豊島太宰少弐、飯田左馬、鷹司家の小林民部権大輔、高橋兵部権大輔、三国大学、三条家の森寺因幡守、丹羽豊前守、中山家の田中河内介らに及び、とりわけ青蓮院宮尊融法親王(後の久邇宮朝彦親王)の家臣、伊丹蔵人、山田勘解由の二人は雲浜に入門して師弟の交わりを結びました。当時青蓮院宮は、天資英邁で「今大塔宮(護良親王)」と称され、孝明天皇の最高顧問として特に信頼を蒙っておられました。そこで雲浜は、門下の伊丹と山田を通じてその青蓮院宮の信任を得ることに成功し、宮に建白した意見書が天皇に内奏され、かの勅答の原案に採用された、という次第です。幕府の目を逃れるため、「江戸風説書」と題されたこの意見書は、幕府と朝廷の問答形式で認められており、一読する限り、前掲した勅答との関係は明らかです。大変重要と思いますので、長文ですが以下に全文を引用します。

 言上 先だって仰せ出された勅掟のおもむき、三家以下諸大名へ再応衆議にかけて、各々存じ寄りを申し出させたところ、方今万国の形勢一変の折から、御処置の次第によっては、たちまち仇敵となり、各国が目前にさしあつまり、全国の大事におよんで、宸襟を安んじ奉るときもないように至るにつき、条約を取り結び、平穏の御取扱い方ありたいとのこと。諸侯が一同右のとおり定議いたした上は、条約の儀、すみやかに御許容あらせられたく存じ奉る。

 勅答 今般三家以下、諸大名衆議の趣、叡聞に達する。一応は道理に聞ゆるも、せんだっても仰せ出されたとおり、条約の儀を御許容になっては、一日も御国威立ち難く、御国威立たざれば、皇祖御代々へ対させられておそれ多く、なおまたこのたび再応衆議の上、叡慮を決せられ、神宮へ御伺い相成りしところ、条約の儀は、神慮にかなわせられぬゆえ、衆議にかかわらず、御許容に相成らない。

言上 今般諸大名同意の上、言上いたしたのに、お許しがなくては、たちまちに各国襲来して戦争となる。その節防御の措置はいかが遊ばされまするや。

 勅答 普天の下、卒土の浜、皆これ王臣であるから、一応は諸侯へ勅命を下される。たとえ勅命に応じない諸侯があるとも、すでにご英断あらせられた上は、三公列卿百官、その外天下有志の者どもをもって、御親征遊ばさるべく、この旨早々帰府の上、大樹(将軍)へ申し入るるよう仰せ出さる。

 言上 天下の御政道は、年来将軍家へ御任せになっていることゆえ、天下の決断所で、諸侯評議の上、言上におよんだのに、お許しがなくては、恐れながら至当の御廟議とも存じませぬ。かつ万民の滅亡におよぶことは、いかが思召されまするや。

 勅答 幕府にては、東照宮以来の良法を守って、朝家を守護し、諸侯を統べ、万民を安んじたるゆえ、年来政道をお任せになったものである。しかるに今般東照宮以来の良法を変革し、外夷と同盟することは、東照宮の神慮もいかがあろうか。諸侯にも不服の者があるおもむき、天下人心の向背にもかかわることゆえ、天朝へ相伺いたるに、深く叡慮を悩ませられ、再応御勘考遊ばされたるも、皇国の御威光相立たず、御国体をけがしては、すでに早や滅亡も同然のことである。よってこのたび、神宮の御神慮を御伺いの上、御英断遊ばされたのである。万一安危の場合におよぶとも、万民とともに御存亡を同じうし遊ばさるべく、神宮に誓わせられて、叡慮を御変更にならない。この上は百応言上におよぶとも、お許しはないお気色である。この旨、三家以下衆議の諸侯へも申し聞けべく、その方在留の義は勝手に仕るべきこと。

この勅答案が上程されたのが安政五年二月、勅答の降下は翌三月です。老中の堀田は仕方なく京都を去り、四月に江戸に帰着しました。ところが、堀田帰着早々大老に就任した井伊直弼は、独断で条約に調印したのみならず、さらにオランダ、ロシア、イギリスとも相次いで通商条約を結んで、その結果を届け捨て同然に、宿次奉書、すなわち今の普通郵便をもって報告しました。この無礼に孝明天皇は激怒し給い、畏れ多くも朝臣たちに御譲位の内勅を下されます。これに朝臣達は何とか天皇をお諫めし、徳川三家か大老の内一人を召喚して事情を尋問しようとしましたが、井伊はこの召命をも黙殺しました。ことここに至って朝廷は幕府の「違勅不信」の罪を責め、幕政改革と外侮への防御を命じる密勅を水戸藩に下します。それが安政五年で、干支で言うと戊午に当たり、幕府ではなく、水戸へ特別に下されたので、「戊午の密勅」ないしは「戊午の別勅」と言われます。もとより朝廷から藩に直接勅命を賜るというのは異例中の異例であり、安政三年の勅答によって明らかになった朝幕間の齟齬は、この勅命によって決裂に発展し、徳川幕府の正体が最早朝敵勢力に過ぎないことが暴露されたのでした。実は、この勅命降下の裏にも雲浜の暗躍があったと言われております。彼は水戸藩の鵜飼知信・幸吉父子、頼三樹三郎、薩摩藩の日下部伊三次等と密議して、幕府は朝命に従わないので水戸に降下し、徳川斉昭を首班とした幕政改革を行うことを企図しておりました。またこの企図には彼の知己である梁川星巌、池内大学、西郷隆盛、小林民部、宇喜多恵、近衛家の老女村岡も関与していたと言われます。朝廷より下された内勅は、まず京都にある鵜飼知信に伝達され、その勅書は知信の子幸吉が日下部伊三次と二人で極秘に水戸にもたらしました。

旧主への直諫、捕縛

勅命降下の急報は、青蓮院宮の家臣である伊丹蔵人によって雲浜に届きました。彼は、旧主の酒井忠義が譜代大名で井伊直弼と近く、京都所司代に就任したために朝敵の汚名を被ることを憂慮し、八月八日付で小浜藩の坪内孫兵衛に宛てた書状で勅命降下の状況を報告するとともに、重役の覚悟を促して忠義を所司代から辞任させようとしました。さらに、九月三日、小浜から行列を引き連れて京都に入ろうとした忠義に直訴し、君臣の大義名分を説いて、所司代への就任を辞退するよう強く諫めたのでした。これらは一重に旧主への恩義に報いんとする赤誠より出でた行動でありましたが、上述した坪内孫兵衛は、雲浜の書状の内容を井伊大老の腹心である長野主膳に通報し、主膳は所司代の酒井忠義に対して、「第一大切の御召捕者」である雲浜の捕縛を迫りました。かくしてついに忠義は伏見奉行の内藤正縄に命じて、雲浜を捕縛したのでした。ときあたかも安政五年九月七日未明、そのとき雲浜が詠んだ

契りしそのあらましも今はただおもひ絶えよと秋風ぞ吹く

君が代を思ふ心の一すぢにわが身ありとも思はざりけり

の二首は、そのまま彼の辞世の句となりました。この雲浜の捕縛を皮切りに、世に云う「安政の大獄」が始まります。周知の様にこの大獄で、吉田松陰や橋本左内の他、多くの志士、公家家臣から幕臣、大名に至るまで総勢120人が処刑されたと云われますが、なかでも雲浜が最初の捕縛者となったのは、当時の彼が京都に策動する尊攘派の枢軸として、幕府から梁川星巌、頼三樹三郎、池内大学と共に「悪謀四天王」の一人と目されていたからです。雲浜は京都で捕縛された後、軍鶏籠(とうまるかご)で江戸に護送せられ、獄中で凄惨な拷問を受けました。そしてついに病を発し、安政六年九月十四日獄死しました。享年、四十五歳。

安政の大獄とは何か

(ここまで梅田雲浜の生涯を略述いたしましたが、ここからは彼の思想的真価について、今少し述べたいと思います。)

周知のように、雲浜を死に至らしめた安政の大獄の首謀者は大老の井伊直弼ですが、奇しくも井伊は雲浜と生年が同じ文化12年(1815)であり、今年は井伊直弼の生誕200年でもあります。そこで井伊の国元である彦根では、市を挙げた盛大な記念祭典が催され、その触れ込みには、井伊が「日本の行く末を本気で憂い開国の英断を行った」と紹介されています。また、その「開国の英断」を行った井伊に反対して処刑された雲浜等尊攘派の志士たちを目して、世界情勢に暗く、開国に反対した頑迷な人たちと見なす意見もあります。あるいはさらにこの立場に立てば、井伊が尊攘派を弾圧した安政の大獄は、井伊等開明派による開国論と雲浜等守旧派による攘夷論との衝突だという見方も成り立つでしょう。

しかし、崎門学の内田周平先生によると、これらは何れも誤った見方です。まず、安政元年の日米和親条約は言うまでもなく、その後の日米修好通商条約も、安政四年から老中の堀田正睦がハリスと協議して草案を作り、朝廷に勅許を奏請していたのであり、井伊が大老に就任した安政五年六月には、既に開国が幕府の既定路線になっておりました。また調印に関しても、これを決行したのは堀田老中であり、井伊は朝廷への申し開きで「条約は、井伊が病気で登城できなかった隙に堀田が部下に申しつけて調印させた」と奏上させています。このように、井伊を「開国の英雄」とするのは明らかな間違いです。さらに尊攘派が頑迷な守旧派と言うのも間違いです。彼らは必ずしも開国に反対していた訳ではないし、むしろいわゆる「開国派」よりもよほど海外の情勢に明るく積極進取の気性に富んでいました。雲浜と同じく安政の大獄で倒れた橋本左内は、早くから蘭学や英語、ドイツ語の洋学に親しみ、我が国の積極的な海外雄飛を唱え、吉田松陰に至っては自ら黒船に乗ってアメリカに渡航しようとした位です。なにより、大獄では、開国を決行した幕府方の張本人である堀田やその側近である川路聖謨も処断されているのですから、安政の大獄を「井伊=開明=開国」に対する「尊攘派=頑迷=攘夷」の構図で捉えることは出来ないのです。

また以上の対外問題とは別に、安政の大獄は、幕府内部の将軍継嗣問題に発端する、徳川斉昭等一橋派と井伊大老等紀州派の権力闘争として捉えられます。すなわち嫡子のいない第十三代将軍家定の跡目として、幕府では徳川斉昭の子である一橋家の徳川慶喜を擁立しようとする一派と、家定の従兄弟である紀州藩主の徳川慶福を擁立しようとする一派が相分かれて争っておりましたが、井伊は大老就任早々将軍継嗣を慶福に決定し、一橋派の斉昭・慶喜父子、尾張藩主の徳川慶恕、越前藩主の松平慶永、土佐藩主の山内容堂等に蟄居謹慎を命じました。その上で、雲浜は一橋派に付いて運動したので、井伊に弾圧された、とする見方です。前述したように、水戸は水戸学の本家で尊皇心が強く、徳川斉昭を中心した攘夷勢力の急先鋒ではありましたが、所詮は徳川の親藩であり、また越前の松平も土佐の山内も、朝廷を尊崇しながらもその立場は徳川の譜代に過ぎませんでした。しかるに雲浜は、一介の浪人として天皇の直臣を自負し、朝旨を奉じて幕府政治そのものを否定したのですから、彼が一橋派に付いて弾圧されたとする見方はミスリーディングです。このように、雲浜の思想と行動の本質は一重に皇室中心主義であり、君臣の大義名分を説く崎門学の精神に他なりませんでした。雲浜の門人で、後にその姪の登美子を妻とした山田勘解由は、雲浜の勤皇論について次のように語ったそうです。

雲浜先生の志は、唯一の勤王といふことに在つて、一片の誠忠、何事も、上様(孝明天皇)の御思召に従はなければならぬといふ考を持つて居られたのである。そこで或時青蓮院宮に謁して、内々上様の御思召を伺ひ奉りたるに、上様は攘夷の御思召にあらせらるゝと聞いて、彌彌(いよいよ)一国の臣民たる者は、一同、上様の御思召を体し奉つて、国家のため攘夷に尽力しなければならぬといふ決心をせられて、是より益々其の持説を固くせられたのである。

先生の卓識にして天下の大勢を達観し、今日あるを予想するの明がなかつたといふことは決してない。攘夷の到底遂げられないといふこと、開国の遂に已むべからずといふことは、固より知って居られたのである。先生が攘夷の考を抱かれた主意は、直ちに各国の請を許して開港するときは、外侮を招くの虞がある。故に攘夷を断行して、内は国家の元気を鼓舞し、外は他国の侮を禦がなければならないといふに在つたのです。先生は、上様の御主意に従ひ、幕府を同意せしめ、全国を糾合し、上下一致して外に当り、一たび攘夷を決行して二百余年間泰平の夢を貪りたる士民の惰眠を覚醒し、然る後に開国の国是を採るとい深い考を持つて居られたのである。先生は幕府に対しても、最初から決して無理に之を討ち倒さうといふ過激な考を持つて居られたのではない。唯幕府をして是非共、上様の御意に従はしめなければならぬといふ希望を持つて居られたのである。

攘夷でも討幕でもなく、ただひたすらに勤皇である。ここに崎門学者たる雲浜の本領があったということです。

雲浜の没後

雲浜の死後、その亡骸は彼の身元を預かった小倉藩主小笠原家の菩提寺である東京浅草の海禅寺に葬られました。また雲浜の訃報を小浜の実家で聞いた姪の登美子は、悲嘆の内に雲浜元服の時の前髪を携えて京都に上りました。そして雲浜の門人の北村屋太助に晴れの着物や髪飾りなど、ある限りの物を売って雲浜の墓石を誂えると、鳥辺山の安祥院にある亡き妻信子の墓が墓石もなく、人に踏み荒らされて見分けが付かないのを見てそこに墓石を立て、雲浜の前髪を遺骸の代わりに葬りました。墓石の文字は、雲浜の門人である巽太郎が世をはばかり「雲浜先生の墓」とのみ記しました。またこのことを聞いた、宍戸九郎兵衛、福原与曾兵衛、入江九一、久坂玄瑞、秋元正一郎らの志士は登美子に香料を送ってきたとのことです。

先の京都行脚では、九月二十日に小生等もこの安祥院にある雲浜の墓をお参りしました。そこは清水寺に至る参道に面した境内を奥に入った所にありましたが、参道が多くの観光客でごった返していたのとは対照的に、夕暮れ時の墓地には人影とてなく、墓地の一角にひっそりと佇む雲浜のお墓には、彼の命日である九月十四日に親族の方々が手向けたと思しきお花がお供えしてありました。小生等は、雲浜の墓前でしばしの間合掌瞑目し、波乱に満ちた雲浜の生涯に想いを馳せると共に、彼が実践した崎門学の精神に深く想いを致したのでありました。

23/12/31 千葉県多様性尊重条例反対討論(令和5年12月9日)
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23/08/31 8/27定例演説要旨
23/08/08 8/6の定例演説要旨@新浦安駅前広場
23/07/10 ラーム・エマニュエル駐日米国大使への抗議文 Letter of protest to U.S. Ambassador to Japan Rahm Emanuel
23/05/22 【千葉県議選当選報告】志を新たに
23/02/21 千葉県政に向けた決意と6つの政策の柱
23/01/17 折本たつのり市議1期目の成果と来期に向けた政策@浦安
23/01/01 【年頭のご挨拶】
22/10/11 【再掲】私は何故、浦安市「まちづくり基本条例」に反対したのか(反対討論全文)
22/09/28 【再掲】草開省三先生(東方国際学院院長)に聞く―朝鮮と李方子妃殿下について(平成23年2月、呉竹会『青年運動』)
22/06/18 浦安から日本を立て直す!(令和4年、浦安稲門会創立35周年記念誌に寄せた挨拶文)
22/02/06 アトキンソン氏関連ツイート
私の理念と政策―浦安の発展戦略(令和4年2月更新)
21/11/01 山崎天王山、真木和泉守等殉国十七烈士の墓所を参拝し詩吟を奉納
21/10/23 『維新と興亜』第9号、10月28日発売!
「明治維新に体現された天皇親政、一君万民の理想とその挫折」(『伝統と革新』第38号)
21/10/06 【再掲】本当の「維新」とは何か(H24.10)
21/09/09 「本来の保守の理念を見失った安倍内閣」(『伝統と革新』第36号「安倍政権は日本を取り戻したか」)
21/09/03 「東京オリンピックに異議あり—首相官邸前で東京オリンピックに反対する緊急街宣を敢行」(『国体文化』令和三年九月号)
21/06/30 大東塾の機関誌『不二』で「真木和泉守論」の連載を開始
21/05/27 真木和泉守略年表
21/01/23 今回の市長選挙に関する私の考え―浦安市長選挙の三大テーマと主要政策
20/08/02 第一回【浦安日本塾】吉田松陰先生の思想と行動
20/04/25 『維新と興亜』第二号を発行しました。
19/12/28 『維新と興亜』創刊号を発行
19/10/28 大アジア主義とは何か
19/10/14 奉納詩吟、梅田雲浜作『訣別』
19/10/11 第七回「尊皇討幕のバイブル、『靖献遺言』を読む会」のお知らせ
19/09/02 韓国訪問記(平成二十三年、呉竹会『青年運動』)
19/08/15 『崎門学報』第十五号を発行
19/08/07 崎門学研究会特別講座のご案内
19/07/26 第六回「尊皇討幕のバイブル、『靖献遺言』を読む会」のお知らせ
19/06/18 『崎門学と『保建大記』―皇政復古の源流思想』(崎門学研究会)刊行
19/05/21 政治活動報告第一号(令和元年五月号)
19/04/27 第四回「尊皇討幕のバイブル、『靖献遺言』を読む会」のお知らせ
19/03/29 私たち世代の責任—これからの浦安のことを考える(ビラ)
19/02/25 第三回「尊皇討幕のバイブル、『靖献遺言』を読む会」のお知らせ
19/01/29 第二回「尊皇討幕のバイブル、『靖献遺言』を読む会」のお知らせ
19/01/07 第一回「尊皇討幕のバイブル、『靖献遺言』を読む会」のお知らせ
18/12/27 李容九生誕百五十年―日韓合邦に殉じた志士の悲劇(『大亜細亜』第六・七号より転載)
18/11/30 第二十一回『保建大記』を読む会のお知らせ
18/11/24 「勤皇志士、有馬新七と崎門学」(『崎門学報』第十号より転載)
18/11/19 伊勢崎賢治・布施祐仁著『主権なき平和国家』(平成三十年、集英社)メモ
18/10/22 第二十回『保建大記』を読む会のお知らせ
18/10/19 第十九回『保建大記』を読む会のお知らせ
18/09/24 『崎門学報』第十三号を発行
18/08/30 山田正彦氏著『タネはどうなる?!』(2018、株式会社サイゾー)摘記
18/08/22 第十八回『保建大記』を読む会のお知らせ
18/07/27 安倍首相に種子法復活を求める要望書を提出
18/06/30 第十七回『保建大記』を読む会のお知らせ
18/06/02 第十六回『保建大記』を読む会のお知らせ
18/05/25 【史料】真木和泉守『楠子論』
18/05/18 『崎門学報』第十二号発行
18/05/03 種子法廃止緊急セミナー@浦安第二弾開催のお知らせ
第十五回『保建大記』を読む会のお知らせ
18/04/03 「種子法廃止緊急セミナー@浦安」を開催
18/04/01 「近世勤王運動の魁ー竹内式部(その二)」(『季刊日本主義』40号、2018年春号)
18/03/30 第十四回『保建大記』を読む会のお知らせ
18/03/03 種子法廃止緊急セミナー@浦安のお知らせ
18/02/27 第十三回『保建大記』を読む会のお知らせ
18/02/13 『崎門学報』第十一号発行
17/12/26 第十二回『保建大記』を読む会のお知らせ
17/12/25 「近世勤王運動の魁ー竹内式部(その一)」(『季刊日本主義』40号、2017年冬号)
17/12/05 『大亜細亜』第四号発行
17/11/30 第十一回『保建大記』を読む会のお知らせ
17/11/19 浦安市民の皆さまへ
17/08/17 第八回『保建大記』を読む会のお知らせ
17/08/03 第七回『保建大記』を読む会のお知らせ
17/07/19 『崎門学報』第十号発行
17/07/10 【史料】有馬新七先生楠公社願文(文久元年九月)
17/06/29 「寺田屋の悲劇」(『季刊日本主義』38号、2017年夏号)
第六回『保建大記』を読む会のお知らせ
17/06/12 【史料】有馬新七先生資料『再び平安城を過ぐるの記』(安政三年十一月二十四日、原漢文)
17/05/15 大アジア研究会『大亜細亜』第三号発行
17/04/25 第四回『保建大記』を読む会のお知らせ
17/03/29 安倍首相宛に「今上陛下の御譲位の件に関する要望書」を提出
17/03/28 「有馬新七の楠公敬仰について」(『季刊日本主義』37号、2017年春号)
第三回『保建大記』を読む会のお知らせ
17/01/29 「我が国における承詔必謹と絶対尊皇の精神について」(『伝統と革新』25号、平成二十九年冬号)
17/01/28 『崎門学報』第九号発行
17/01/25 「国体の本義を正し、対米従属からの脱却を!」(愛媛県師友会-ひの会会報『ひ』第502号)
17/01/07 「崎門学と大アジア主義の関係について」(『大亜細亜』第二号より転載)
17/01/04 浅見絅齋先生「中国辨」(元禄十四年、西暦1701年改定)
16/12/31 「勤皇志士、有馬新七と崎門学」(『季刊・日本主義』第三十六号)
16/11/29 大アジア研究会『大亜細亜』第二号発行
16/11/14 トランプ勝利の要因と日本の進路
16/10/24 「ねずさん」こと、小名木善行先生 講演会のお知らせ
16/10/08 アルテミオ・リカルテ生誕百五十年記念祭のお知らせ
16/10/03 坪内隆彦氏待望の新著『GHQが恐れた崎門学』(展転社)刊行
16/09/10 「天皇陛下のおことばを拝して」(『崎門学報』第八号より転載)
『崎門学報』第八号発行
16/08/18 チャンドラ・ボース忌法要に参列
16/08/15 中臣祓師説(若林強斎講義、澤田重淵筆記)7/7
16/07/01 大アジア研究会発行『大亜細亜』創刊
16/05/14 三橋貴明『日本「新」社会主義宣言』(2016、徳間書店)の要約
16/05/06 『崎門学報』第七号発行
16/03/25 アルテミオ・リカルテと日比の絆3/3
16/03/17 自主防衛への道―いまこそ核武装による恒久平和の確立を
16/03/14 アルテミオ・リカルテと日比の絆2/3
16/03/12 アルテミオ・リカルテと日比の絆1/3
16/02/05 皇統護持論(令和2年9月修正)
16/02/03 「歴史認識におけるアメリカの干渉を排す」(『崎門学報』第六号より転載)
16/01/31 『崎門学報』第六号発行
15/12/23 吉田松陰先生『講孟箚記』を読む②(第十一場から二十場)
15/12/19 大アジア主義の実相(覚書)
15/12/01 梅田雲浜先生生誕200年記念墓参における挨拶文
15/11/25 「三島由紀夫、森田必勝両烈士顕彰祭」参加報告
15/11/07 『崎門学報』第五号発行
『崎門学者、梅田雲浜』(『崎門学報』第五号より転載)
15/10/29 梅田雲浜先生生誕200年記念墓参のお知らせ
15/09/25 平沼氏の復党に想う―いまこそ真の保守政党の結成を待望する
15/09/14 安保法案に反対するー個別的自衛権の確立が先決
15/09/08 ハワイ・イオラニ宮殿参観
15/08/29 若林強斎先生『雑話筆記』を読む④
15/08/27 若林強斎先生『雑話筆記』を読む③
15/08/24 若林強斎先生『雑話筆記』を読む②
15/08/20 若林強斎先生『雑話筆記』を読む①(『崎門学報』第四号より転載)
15/08/03 『崎門学報』第四号発行
15/06/18 下斗米伸夫『プーチンはアジアをめざす』メモ
15/05/13 我観:対米自立こそ急務(『崎門学報』第三号)
『崎門学報』第三号発行
15/04/12 東京書籍歴史教科書の何が問題か
15/04/09 木村三浩氏講演要旨
15/04/04 浅見絅斎先生『三国正統弁』(翻刻)
15/03/20 「三和」の精神に殉じた朝鮮独立の志士、金玉均の生涯について
15/02/28 吉田松陰先生『講孟箚記』を読む(第一場から十場)
15/02/13 浦安市に歴史教科書採択に関する請願書を提出
15/01/21 『崎門学報』第二号発刊
14/12/29 徳富蘇峰日記を味わう②-皇室中心主義とは何か
14/12/22 徳富蘇峰日記を味わう①-日本は民主主義に非ず
14/12/16 次世代の党はなぜ負けたか。
14/11/30 『保建大記』における神器論の問題
14/10/01 『崎門学報』創刊
14/09/01 栗山潜峰先生墓参
14/08/20 山縣大弐補論
14/08/03 「崎門学に学ぶ」(終)一水会『レコンキスタ』平成26年8月号
14/07/29 秦山先生小伝(『秦山集』)
14/07/14 栗山潜峰と『保建大記』
14/07/10 「崎門学に学ぶ」⑨一水会『レコンキスタ』平成26年7月号
14/07/09 佐々木実『市場と権力』(講談社)覚書
14/07/07 佐々木実氏講演要旨
14/06/07 『統帥権奉還論―安倍首相は聖上に兵馬の権をお返しせよ』(呉竹会『青年運動』平成26年5月号)
14/06/03 「崎門学に学ぶ」⑧一水会『レコンキスタ』平成26年6月号
14/05/30 頭山統一先生『筑前玄洋社』(葦書房)を読む
14/05/10 「崎門学に学ぶ」⑦一水会『レコンキスタ』平成26年5月号
14/04/22 武藤貴也(衆議院議員) 『わが国は核武装するしかない』
14/04/06 「崎門学に学ぶ⑥」一水会『レコンキスタ』平成26年4月号
14/03/31 中臣祓師説(若林強斎講義、澤田重淵筆記)6/7
14/03/30 中臣祓師説(若林強斎講義、澤田重淵筆記)5/7
14/03/24 再録 『先哲を仰ぐ』(平泉澄先生、錦正社)読書メモ8
再録 『先哲を仰ぐ』(平泉澄先生、錦正社)読書メモ7
再録 『先哲を仰ぐ』(平泉澄先生、錦正社)読書メモ6
再録 『先哲を仰ぐ』(平泉澄先生、錦正社)読書メモ5
14/03/23 再録 『先哲を仰ぐ』(平泉澄先生、錦正社)読書メモ4
再録 『先哲を仰ぐ』(平泉澄先生、錦正社)読書メモ3
再録 『先哲を仰ぐ』(平泉澄先生、錦正社)読書メモ2
再録 『先哲を仰ぐ』(平泉澄先生、錦正社)読書メモ1
14/03/16 中臣祓師説(若林強斎講義、澤田重淵筆記)4/7
中臣祓師説(若林強斎講義、澤田重淵筆記)3/7
中臣祓師説(若林強斎講義、澤田重淵筆記)2/7
14/03/13 頭山秀三先生 放送原稿『父を語る』
14/03/05 中臣祓師説(若林強斎講義、澤田重淵筆記)1/7
14/03/04 小林よしのり氏の『大東亜論』を読んだ。(1)
14/03/03 「崎門学に学ぶ⑤」一水会『レコンキスタ』平成26年3月号
14/02/20 呉竹会 十周年記念大会のお知らせ
日ロの関係打開の機は熟した
14/02/15 若林強斎について④神道大意
14/02/11 奉祝 紀元節
若林強斎先生について③忠と孝の狭間で
「崎門学に学ぶ④」一水会『レコンキスタ』平成26年2月号
14/02/06 若林強斎先生について②望楠軒の創設
若林強斎先生について①苦学力行の人
14/02/03 若林強斎先生の説く崎門学の必読文献
14/01/28 若林強斎『雑話筆記』摘録2
14/01/22 若林強斎先生『雑話筆記』摘録1
14/01/20 若林強斎先生『神道大意』2/2
若林強斎先生『神道大意』1/2
14/01/06 これぞ臣道の極致!『拘幽操師説』 (浅見絅斎講義、若林強斎筆記)(現代語全訳)
14/01/02 『神皇正統記』を読む⑭最終回
14/01/01 『神皇正統記』を読む⑬
13/12/29 安倍首相の靖国参拝を支持する。
13/12/28 『神皇正統記』を読む⑫
『神皇正統記』を読む⑪
13/12/23 奉祝 天長節
13/12/20 中国の防空識別圏設定に対するアメリカの二枚舌外交
13/12/18 『神皇正統記』を読む⑩
13/12/16 安倍首相は天皇陛下に大政を奉還し、在日米軍を撤退させよ。
『神皇正統記』を読む⑨
13/12/09 浦安市の歴史・公民教科書採択に関する柳市議の議会質問
歴史教科書における自由社と育鵬社の違い
13/12/07 わが国の核武装と原発推進は二律背反
13/12/04 崎門学研究会「崎門学に学ぶ③」一水会『レコンキスタ』平成25年12月号
13/12/01 『神皇正統記』を読む⑧
13/11/25 『神皇正統記』を読む⑦
13/11/16 『神皇正統記』を読む⑥
『神皇正統記』を読む⑤
13/11/09 Why ‘ Asia Restoration’ ? 4
13/11/07 『神皇正統記』を読む④
13/11/06 『神皇正統記』を読む③
13/11/05 Why ‘Asia Restoration’? 3
13/11/03 Why ‘Asia Restoration’? 2
『神皇正統記』を読む②
13/11/02 崎門学研究会「崎門学に学ぶ②」一水会『レコンキスタ』平成25年11月号
13/10/27 インド、シン首相、訪中の成果(『インド・ニュース』10/27付)
13/10/26 インド財界、モディ氏に鞍替えの様相(英誌『エコノミスト』10月19日付)
親米保守の自己欺瞞を質す
13/10/25 Why ‘Asia Restoration’? 1
13/10/24 Is Mr. Abe really conservative?
安倍さんは本当に保守なのか? 
13/10/19 北畠親房『神皇正統記』を読む① 
13/10/18 拘幽操師説 浅見絅斎講述 若林強斎筆録(部分口語訳)
13/10/11 インド経済はなぜ減速しているのか2
13/10/10 インド経済はなぜ減速しているのか1
13/10/03 『崎門学に学ぶ』①(一水会『レコンキスタ』平成25年10月号)
13/09/24 拘幽操師説 浅見絅斎講述 若林強斎筆5/5
13/09/09 対米従属の構造分析①有馬哲夫『原発・正力・CIA』(08年、新潮新書)を読む2/2
13/09/06 対米従属の構造分析①有馬哲夫『原発・正力・CIA』(08年、新潮新書)を読む1/2
13/08/24 韓国との付き合い方―朴鉄柱先生のこと
13/08/23 TPP, Ultimate Unequal Treaty, Deprives Nation Stat
13/08/19 維新の源流、崎門学(呉竹会『青年運動』平成25年8月号)
13/08/09 拘幽操師説 浅見絅斎講述 若林強斎筆録4/5
13/08/05 生を捨てて義を取る―「三崎」こと「殉節三烈士」のこと(呉竹会『青年運動』平成24年8月号)
清国改造を志し、新疆偵察の途上で消息を絶った東亜の先覚烈士、浦敬一(『青年運動』平成24年4月号)
興亜の先達、荒尾精の「宇内統一論」を読む(呉竹会『青年運動』平成24年1月号)
13/07/30 拘幽操 山崎闇斎題跋
13/06/21 前泊博盛編著『本当は憲法よりも大切な「日米地位協定入門」』(創元社)を読む④
13/06/19 BJP党首「もはやチベット問題に無感ではいられない」(「チベット・ポスト」6/18)
13/06/10 兵馬の権、何処にありや-対露同志会による日露開戦の奏疏(呉竹会『青年運動』平成24年11月号)
13/06/08 大アジア主義は可能か2
13/06/06 青春の情熱は恋愛ではなく祖国に捧げるもの-来島恒喜先生のこと
13/06/05 大アジア主義は可能か1
13/06/03 前泊博盛編著『本当は憲法よりも大切な「日米地位協定入門」』(創元社)を読む③
13/06/02 明治天皇様が沖縄に寄せられた大御心は「一視同仁」
13/05/31 前泊博盛編著『本当は憲法よりも大切な「日米地位協定入門」』(創元社)を読む②
13/05/30 百術は一誠に如かず-藤原岩市とF機関(呉竹会『青年運動』平成25年5月号)
13/05/29 前泊博盛編著『本当は憲法よりも大切な「日米地位協定入門」』(創元社)を読む1/4
13/05/27 96条改正の是非について
13/05/26 あらためて橋下発言について思うこと
13/05/24 アジア主義の先覚者、荒尾精の思想について(呉竹会『青年運動』平成25年2月号)
13/05/22 石原慎太郎的「憲法無効論」への疑惑
13/05/21 いまなぜ維新と興亜なのか
13/05/09 チベットの歴史20 イギリスのチベット進出2
チベットの歴史19 イギリスのチベット進出1
13/04/30 拘幽操師説 浅見絅斎講述 若林強斎筆録3/5
13/04/29 チベットの歴史18 清朝のチベット制圧5
13/04/27 チベットの歴史17 清朝のチベット制圧4
13/04/26 拘幽操師説 浅見絅斎講述 若林強斎筆録2/5
13/04/20 拘幽操師説 浅見絅斎講述 若林強斎筆録1/5
13/04/18 チベットの歴史16 清朝のチベット制圧3
13/04/15 チベットの歴史15 清朝のチベット制圧2
13/04/14 浅見絅斎講義、若林強斎筆録『拘幽操師説』(資料)0
13/04/07 渡辺惣樹『日米衝突の根源』(2011、草思社)を読む7 門戸開放通牒
13/04/06 浅見絅斎先生『靖献遺言講義』巻の二、「三国正統弁」
13/03/31 山崎闇齊先生について
13/03/24 渡辺惣樹『日米衝突の根源』(2011、草思社)を読む6 米西戦争
13/03/22 「私はなぜガンディーを殺したのか」全文(1~7)
「私はなぜガンディーを殺したのか」7(終)
13/03/19 チベットの歴史14 清朝のチベット制圧1
13/03/17 「私はなぜガンディーを殺したのか」6
「私はなぜガンディーを殺したのか」5
13/03/14 「私は何故ガンディーを殺したのか」4
13/03/12 チベットの歴史13 ジュンガルと満州2
13/03/11 「私はなぜガンディーを殺したのか」3
チベットの歴史12 満州とジュンガル1
13/03/10 「私はなぜガンディーを殺したのか」2
13/03/09 「私はなぜガンディーを殺したのか」1
13/03/07 シナの軍拡に焦るインド
Anglo Indians
渡辺惣樹『日米衝突の根源』(2011、草思社)を読む5  アメリカのハワイ併合(後半)
13/03/06 渡辺惣樹『日米衝突の根源』(2011、草思社)を読む5  アメリカのハワイ併合(前半)
13/03/04 インドにおけるムスリム勢力の展開2
13/03/01 インドにおけるムスリム勢力の展開1
13/02/28 デリーの大気汚染は北京よりヤバい
渡辺惣樹『日米衝突の根源』(2011、草思社)を読む4  支那人排斥法
13/02/27 インド情勢分析の視点―宗教・民族問題の視点から
13/02/13 先般のインド集団強姦事件を総括する(呉竹会『青年運動』)
13/02/11 祝紀元節 天皇陛下万歳 「神武建国の精神とは何か」
13/02/10 チベットの新年行事、ロサについて
13/02/08 チベットの歴史11 ゲルク派の勝利
13/02/06 チベットの歴史10 ダライ・ラマの起源
13/02/05 チベットの歴史9 転生ラマの起源
13/01/31 渡辺惣樹『日米衝突の根源』(2011、草思社)を読む3  大陸横断鉄道開通
13/01/25 渡辺惣樹『日米衝突の根源』(2011、草思社)を読む2 南北戦争と「奴隷解放宣言」
13/01/21 インド社会は、「市場の失敗」と「政府の失敗」のスパイラル
ラホール・ガンディ、ついに国民会議の実質トップに
吉田松陰先生著近藤啓吾先生全訳注『講孟劄記』(講談社第30刷)を読む 第7回
13/01/20 渡辺惣樹『日米衝突の根源』(2011、草思社)を読む1 太平洋への目覚め
13/01/17 チベットの歴史8 赤帽派と黄帽派の相克
13/01/13 チベットの歴史7 ゲルク派(黄帽派)の勃興
13/01/10 チベットの歴史6 チベットとモンゴル2/2
13/01/09 チベットの歴史5 チベットとモンゴル1/2
13/01/07 チベットの歴史4 王政時代
吉田松陰先生著近藤啓吾先生全訳注『講孟劄記』(講談社第30刷)を読む 第6回
13/01/05 チベットの歴史3
13/01/02 チベットの歴史2
13/01/01 チベットの歴史1
12/12/31 吉田松陰先生著近藤啓吾先生全訳注『講孟劄記』(講談社第30刷)を読む 第5回
12/12/26 訪印中のプーチン、インドと約3800億円の武器売却商談をまとめる。
12/12/25 『靖献遺言』総説
12/12/23 16日デリーにおける女性学生レイプ事件について
吉田松陰先生著近藤啓吾先生全訳注『講孟劄記』(講談社第30刷)を読む 第4回
12/12/13 浅見絅斎先生と『靖献遺言』
12/12/05 『靖献遺言』を読む11方孝孺
12/12/02 吉田松陰先生著近藤啓吾先生全訳注『講孟劄記』(講談社第30刷)を読む 第3回
12/11/30 中野剛志氏『TPP亡国論』におけるTPP反対論の論拠
12/11/25 エドワード・ルース『インド 厄介な経済大国』(2008、日経BP社)覚書③
吉田松陰先生著近藤啓吾先生全訳注『講孟劄記』(講談社第30刷)を読む 第2回
12/11/18 吉田松陰先生著近藤啓吾先生全訳注『講孟劄記』(講談社第30刷)を読む 第1回
12/11/15 日支尖閣有事予測①
12/11/13 エドワード・ルース『インド 厄介な経済大国』(2008、日経BP社)覚書②
12/11/03 『靖献遺言』を読む10謝枋得
12/11/01 エドワード・ルース『インド 厄介な経済大国』(2008、日経BP社)覚書①
12/10/21 本当の「維新」とは何か:第Ⅱ部全文
本当の「維新」とは何か:第Ⅱ部④ ボストンにいるB君と香港にいるN君に捧ぐ
12/10/19 本当の「維新」とは何か:第Ⅱ部③ ボストンにいるB君と香港にいるN君に捧ぐ
12/10/15 『靖献遺言』を読む9劉因
12/10/11 本当の「維新」とは何か:第Ⅱ部② ボストンにいるB君と香港にいるN君に捧ぐ
12/10/07 本当の「維新」とは何か:第Ⅱ部① ボストンにいるB君と香港にいるN君に捧ぐ
12/10/04 本当の「維新」とは何か:第Ⅰ部全文 ボストンにいるB君と香港にいるN君に捧ぐ
本当の「維新」とは何か:第Ⅰ部④ ボストンにいるB君と香港にいるN君に捧ぐ
12/09/29 本当の「維新」とは何か:第Ⅰ部③ ボストンにいるB君と香港にいるN君に捧ぐ
12/09/28 インドの経済界に根を張るゾロアスター教徒
12/09/26 パトリック・ブキャナン論説『海兵隊を召還せよ』
12/09/24 本当の「維新」とは何か:第Ⅰ部② ボストンにいるB君と香港にいるN君に捧ぐ
12/09/21 パトリック・ブキャナン論説『いまこそ、祖国に帰るとき?』
12/09/19 本当の「維新」とは何か:第Ⅰ部① ボストンにいるB君と香港にいるN君に捧ぐ
12/09/17 豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』(2008、岩波書店)を読む⑤
豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』(2008、岩波書店)を読む④
12/09/14 豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』(2008、岩波書店)を読む③
12/09/12 豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』(2008、岩波書店)を読む②
12/09/09 第三次アーミテージ報告(全訳資料):『米日同盟―アジア安定の鎮台』(2012.8)⑨
第三次アーミテージ報告(全訳資料):『米日同盟―アジア安定の鎮台』(2012.8)⑧
12/09/08 豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』(2008、岩波書店)を読む①
12/09/06 第三次アーミテージ報告(全訳資料):『米日同盟―アジア安定の鎮台』(2012.8)⑦
12/09/03 訪印中の梁光烈国防部長、戦没者墓碑への表敬をスルー
12/09/02 第三次アーミテージ報告(全訳資料):『米日同盟―アジア安定の鎮台』(2012.8)⑥
12/08/31 シナはアルナチャル・プラデーシュを「南チベット」と呼称
12/08/30 第三次アーミテージ報告(全訳資料):『米日同盟―アジア安定の鎮台』(2012.8)⑤
12/08/29 第三次アーミテージ報告(全訳資料):『米日同盟―アジア安定の鎮台』(2012.8)④
12/08/27 第三次アーミテージ報告(全訳資料):『米日同盟―アジア安定の鎮台』(2012.8)③
12/08/26 韓国こそ「戦争責任」を謝罪せよ。
12/08/25 第三次アーミテージ報告(全訳資料):『米日同盟―アジア安定の鎮台』(2012.8)②
12/08/24 第三次アーミテージ報告(全訳資料):『米日同盟―アジア安定の鎮台』(2012.8)①
12/08/23 マネサールにあるマルチ・スズキ工場、厳戒監視下で再稼働
12/08/20 スリランカをめぐるインドの憂鬱
12/08/18 『靖献遺言』を読む8文天祥
12/08/17 新東亜論―米国の普遍主義を排す(2009)12
新東亜論―米国の普遍主義を排す(2009)11
新東亜論―米国の普遍主義を排す(2009)10
新東亜論―米国の普遍主義を排す(2009)9
新東亜論―米国の普遍主義を排す(2009)8
新東亜論―米国の普遍主義を排す(2009)7
新東亜論―米国の普遍主義を排す(2009)6
新東亜論―米国の普遍主義を排す(2009)5
新東亜論―米国の普遍主義を排す(2009)4
新東亜論―米国の普遍主義を排す(2009)3
新東亜論―米国の普遍主義を排す(2009)2
新東亜論―米国の普遍主義を排す(2009)1
12/08/16 日本の終戦記念日は、インドの独立記念日
12/08/11 孫崎享『戦後史の正体』(創元社,2012)書評
12/08/10 『靖献遺言』を読む7顔真卿
12/08/07 『靖献遺言』を読む6顔真卿
12/07/27 インドの内政・外交に関する仮説
12/07/18 当代アジア主義試論 追補1
12/07/16 『靖献遺言』を読む5陶潜
12/07/12 チャンドラ・ボースと「F機関」
12/07/08 近代資本主義の終焉
12/07/01 ダラムサラの神聖と卑俗
12/06/15 インド当局、カルマパと関係のある台湾籍の中国人を逮捕
12/06/13 『靖献遺言』を読む4諸葛亮
12/06/12 『靖献遺言』を読む3諸葛亮
12/06/10 『靖献遺言』を読む2屈平
12/06/07 当代アジア主義試論
12/06/05 インド論構想メモ
チベット人を主とするインド国境守備特殊部隊SFF(Special Frontier Force)5
チベット人を主とするインド国境守備特殊部隊SFF(Special Frontier Force)4
チベット人を主とするインド国境守備特殊部隊SFF(Special Frontier Force)3
チベット人を主とするインド国境守備特殊部隊SFF(Special Frontier Force)2
チベット人を主とするインド国境守備特殊部隊SFF(Special Frontier Force) 1
12/05/29 孫崎享『不愉快な現実』覚書
12/05/23 『靖献遺言』を読む1屈平
12/03/04 第三回史記列伝勉強会梗概 第三回史記列伝勉強会梗概
第2回史記列伝勉強会梗概
第1回史記列伝勉強会梗概
12/01/10 インドの不動産登記制度について
檀君は国祖神か?
12/01/08 チベット出自の中国人諜報員がダライラマの襲撃を企図とインド情報部
11/12/28 朝鮮方策要綱-朝鮮研究の中間的結論
11/11/04 第三回朝鮮勉強会資料追補
11/11/01 第三回朝鮮研究会レジュメ~朝鮮総督府の統治実績について~
11/10/27 山本七平『現人神の創作者たち』(下)覚書
11/10/21 藤井厳喜氏新著『日本人が知らないアメリカの本音』(PHP)覚書
11/10/16 アメリカの対日政策覚書
11/10/15 フォーリン・アフェアーズ誌上、朴槿恵論文が意味するもの
大使館職員がナバ危機に対して重大な関心を表明(Phayul)
11/10/11 朝鮮研究会レジュメ
朝鮮研究会設置趣旨及び日
11/10/10 『The Snow Lion and the Dragon』1Melvyn C.Goldstein 
『The snow lion and the dragon』2
『The snow lion and the dragon』3
13人のチベット人学生がデリーの中国大使館外で逮捕される。
11/10/08 チベットからさらに心痛むニュース、2人のチベット人が自決す(Phayul)。
11/10/07 人民解放軍、パキスタンに占領されたカシミール地域で活動活発化、とインド軍司令官(Phayul)
11/09/17 我観:近年の韓流ブームについて
11/09/11 山本七平『現人神の創作者たち(上)』覚書2
9/5付朝鮮日報 「私たちは指導者の子」 金総書記が朴槿恵氏に
11/09/06 山本七平『現人神の創作者たち(上)』覚書1
11/09/04 国体問題研究会設立趣意(平成二十二年)
国体論の論点(平成二十二年)
11/08/14 黄長燁回顧録-金正日への宣戦布告(文芸春秋)メモ
11/08/13 朝鮮問題に関して検証されるべき諸仮説
11/08/09 『高度国防国家戦略』(2009)要約
『高度国防国家戦略』(2009)目次
『高度国防国家戦略』①
『高度国防国家戦略』②
『高度国防国家戦略』③
『高度国防国家戦略』④
『高度国防国家戦略』⑤
『高度国防国家戦略』⑥
『高度国防国家戦略』⑦
『高度国防国家戦略』⑧
『高度国防国家戦略』⑨
『高度国防国家戦略』⑩
『高度国防国家戦略』⑪
『高度国防国家戦略』⑫
『高度国防国家戦略』参考文献
11/08/07 『1930年代の悪夢が再現されるのか』
11/08/02 カーター・エッカート『大日本帝国の申し子』(草思社)書評
11/07/31 石橋湛山の小日本主義について
11/07/13 朴槿恵氏、始動(『東亜』)
11/07/11 呉善花『韓国人からみた北朝鮮―独裁国家のルーツ』(PHP)覚書
李來榮(イネヨン)高麗大学校教授講演摘要
11/07/08 河信基『韓国を強国に変えた男 朴正熙』(光人社)読後感
11/06/05 金両基『物語韓国史』(講談社新書)メモ
11/05/25 黒龍会『会報』(「露国の実力を算して和戦の利害に及ぶ」)メモ
11/05/24 平成の「日韓合邦」試論(2010)
朝鮮問題研究の趣旨と論点
11/05/18 本日518ブログ開設
露国東方経営部面全図全容